速魚の船中発策ブログ まとめ





廿日市散歩

西国街道・安芸路

西国海道 草津まち散歩

四境の役  芸州口の合戦 
  和木を訪ねて

毛利元就の調略  厳島の合戦における

折敷畑合戦(おしきばた)

厳島の合戦場 を訪ねて

桜尾城

吉田郡山城

広島城

岩国城

八条原城

五日市城

草津城・安芸






































































































































































































































































































































































































































































































廿日市散歩

西国街道・安芸路

西国海道 草津まち散歩

四境の役  芸州口の合戦 
  和木を訪ねて

毛利元就の調略  厳島の合戦における

折敷畑合戦(おしきばた)

厳島の合戦場 を訪ねて

桜尾城

吉田郡山城

広島城

岩国城

八条原城

五日市城

草津城・安芸


























































































































安芸・廿日市まとめ



  廿日市ボ−トパ−クには3年余りヨットを係留させてもらい感謝もうしあげます。県外の者にも広く開放していただき広島県ありがとうございました。
 安芸の地をあちこち散策いたしましたので、ここにまとめてみました。

          2019-9-26






  廿日市散歩

     広島街道


   西国街道・安芸路をここでとりあげました。 廿日市近辺のそれを探るなかで、海岸沿いをすすむ宮島へ通じる道だと誤解していました。それはJR宮内串戸駅から御手洗川に沿って山沿いに行く道が正解でした。
 誤解が分かったなかで、廿日市の本陣跡より地御前神社を経てナタリ−号のゆかりの地まで散歩をしました。



 廿日市本陣跡 廿日市市民センタ―内

可愛橋を過ぎてすぐ右に行くと西国街道ですが、まっすぐ歩きます。



 可愛橋

藤掛尾城主の小方加賀守が造る。陶晴賢に攻めら落城。桜尾城もそうでしたが、ここも厳島神社の領地の時代があった。



 新宮神社



 藤掛尾城跡碑 本丸と2の丸があったという

ところどころに街道脇にあったと思われる民家が現存します。



 民家1



 民家2




 広島街道 道標 右に行くと広島街道の道標

西向寺の山門をくぐると、蓮華松という寺域いっぱいに沿うようにして
松の枝が広がっている。



 西向寺と蓮華松

地御前小学校の一角に画家の小林千古生誕地の碑があります。移民労働者として米国に渡り美術学校に学び、41歳で没した。



 小林千古生誕地の碑



 代表作 パッシヨン 1901年 小林千古

厳島神社の外宮にあたる地御前神社、管弦祭の折にはここを船の出発として始まる。
由緒のある堂々とした建物である。



 地御前神社

そこから海岸沿いを歩くと、厳島の合戦のときに毛利軍はここから風雨のなかで厳島へ船出した。その地、火立岩の碑に行ける。



 ほたていわ跡 




 火立岩の干潮時より厳島を望む

日本の成長期の70年代に海洋型遊園地の目玉として、1937年建造の帆船ナタリ−号おかれていた。バブルの崩壊のあと1996年閉園した。その後マンションとショッピングセンタ−として再開発され現在に至る。



 ナタリ−にちなんだショッピングモール



 ナタリ−号の碑

   2017-8-2





    西国街道・安芸路


  
 広島よりJR山陽線で5−6駅西方にある廿日市近辺の西国街道を歩いてみました。 西国街道は京都より下関を結ぶ街道です。西国往還や山陽道と呼ぶこともあり。 吉田松陰、久坂玄瑞、坂本竜馬など幕末の志士が旅した道です。

 街道を歩いていて気持ちが良いのは、道が直線で構成されていなくて微妙にカ−ブしているところです。なごむ感じがして落ち着きを感じます。





  全体図







 佐方一里塚--天満宮--福佐売神社まで その1

 JRの駅か広電の廿日市駅からの出発になります。下の一里塚は急な崖下にありその崖まで住宅が迫って立っています。 街道の横は海岸だったのでしょう。すぐに、街道に沿って植えられていた松が、現在ではここにしか残っていない街道松に着きます。




佐方一里塚




 街道松

 現在は桂公園となっている桜尾城を左に見ることになります。さらに歩いていくと急な丘の上に天満宮が見えます。まさに城があったのではと思わせますが、そのとうりで篠尾城跡でもあります。 近くに廿日市本陣跡で、今は中央公民館となっています。駅から海側に広い通りがあり、コインランドリ−やパチンコ店近くに、町屋跡を示す銘板があります。 幕末の長州征討のおりに、幕府によって戦争準備のため事前に焼かれてしまいました。






 左手奥の木立の丘が桜尾城跡・桂公園





 大正時代の桜尾城  現桂公園





 天満宮 合格祈願 古城跡





 廿日市町屋跡



 ここら辺は市街化されています、常念寺を過ぎ自転車店のところで道なりに大きく曲がります福佐売神社の石柱があります。神社は街道から細い参詣道を30mほど奥にあります。
 可愛川を渡ってすぐ右に折れて広電踏切を通り広電廿日石市役所前駅の北側を過ぎます。






 常念寺 浄土真宗のお寺








 福佐売神社−−広電廿日市市役所前‐−山陽本線陸橋まで その2







 福佐売神社 古書に朝廷から顕彰された謂れで建立





  可愛橋を渡り川沿いを右へ






 広島電鉄の踏切を渡り左へ


 ここからは少し複雑で、下写真の奥へ崖に沿ってすすむとJR山陽線の陸橋を渡り
鉄路横を歩き国道247号線の陸橋下を通ってJR宮内串戸駅に至る。





真っ直ぐに進行






JRの陸橋を越える






 JR山陽線陸橋---JR宮内串戸駅 その3




 247号線の陸橋下をJR宮内串戸駅方面へ




 JR宮内串戸駅より専念寺まで その4

 駅前の広い道路を100mくらい過ぎると信号のあるT字路になり、左折して御手洗川そいに歩くと一里塚と専念寺に至る。宮内串戸駅近くにも一里塚があるようですが、未確認です。 2時間ぐらいのゆっくりとした散歩になります。






 JR宮内串戸駅 自転車預かり所 右へ





 左側の御手洗川沿いを歩く







 宮内一里塚




 専念寺

  御手洗川を渡って西国街道と津和野街道の分岐点に至る。その途中に折敷畑の合戦の登山道がある。





        2017-3-2








     西国海道 草津まち散歩




 草津城を見て川沿いを南に下ると、西国街道沿いの町並み保存地区に至る。 草津湊は埋め立てられたせいか、痕跡は見られなかった。草津は古くは軍津(いくさつ)呼ばれていたようで、水軍の地として栄えた。

 明治天皇が休憩したという小泉酒造の小泉家、幸福稲荷、大釣井、西楽寺、福溝稲荷、西氏功徳碑などを見て回ることができます。




 西国街道  草津まち地図  赤マ−クは写真あり

 






 西氏功徳碑 広島藩の支藩三次藩の飛び地であったので西氏は三次藩医の家系であった。




小泉家と記念碑 明治天皇と皇后が小泉家で休憩された記念碑




小泉家 酒造




 福溝稲荷と地蔵




 大釣井 塩分少なく共同井戸




 西楽寺




 幸福稲荷大明神







     四境の役  芸州口の合戦 

        和木を訪ねて    



  第2次長州征伐の戦いで、四境の役のひとつ大島口の戦いはここで書きました。この戦いで大島より撤退した幕府歩兵2個大隊は芸備口の戦いに参戦した。4つの方面の戦いでこの芸州口の戦いが主戦場であった。

 1. 大島口の戦い 1866年6月7日−6月17日  幕府軍2万vs長州軍千人  世良修蔵の指揮

 2. 芸州口の戦い 同年 6月13日−6月19日 幕府軍5万vs長州軍2千人  引き分け

 3. 石州口の戦い 同年 6月15日−6月17日  幕府軍3万vs長州軍千人  大村益次郎指揮

 4. 小倉口の戦い 同年 6月17日−8月1日  幕府軍5万vs長州軍千人  高杉晋作指揮

 広島城に集結した幕府軍は、彦根藩、高田藩、紀伊藩、与板藩など3万の軍勢に達していました。赤揃えの彦根藩が先鋒として小瀬川の大和橋付近に布陣した。

 JR和木駅から徒歩10分くらいで小瀬川にかかる大和橋に行ける。この小瀬川は安芸の国と周防の国との国境をなすものである。ここで彦根藩の使者・竹原七朗平が川を渡っているところを長州に銃撃され戦死した。その渡河地点に石碑がある。




 竹原七朗平の石碑と渡河場所




現在の大和橋  大竹側から和木の長州川を望む

 

 その銃撃とともに戦闘が開始された。川辺にある小高い山に瀬田八幡宮があり、絶好の砲撃ポイントであり、ここから大砲が打たれました。

 この神社は平清盛のころには海岸が迫り柏崎といわれ彼の歌碑がある。




 大和橋を望む、砲撃には良い拠点








 彦根藩兵は長州兵の少数ながらも最新のミニエ−銃で攻撃され敗走した。 この小瀬川より幕府軍の侵入を妨げたことにより、ここに封境の地の石碑が建つ。




 ミニエ−銃 命中率や射程が優れていた。




 封境之地の石碑  対岸は現在の大竹市

 長州軍は玖波まで進軍してそこで戦線は膠着して、9月2日に勝海舟を派遣して宮島の大願寺で停戦した。




   厳島神社の隣にある大願寺



  蜂が峰総合公園には四境の役・芸州口の戦いが展示されていた。 お約束のように今回もまた、そこへ行くまでの山登りとなった。

午前中はバス1便しかなく、時間をよく調べていくことが必要です。

 


   和木町歴史資料館 2階展示室


   2017-6-6








    毛利元就の調略  厳島の合戦における




 折敷畑の合戦後の毛利氏周辺図

 


 毛利元就の厳島の合戦における勝利は、奇襲といえども天運が味方したものではない。厳島に陶氏の本軍を誘引して、元就はそこでしか勝てない状況に持ち込んだことで、軍勢の劣る毛利は勝利できました。

 毛利の調略


1. 尼子氏へ
 
尼子氏の柱石ともいわれた新宮党の国久と誠久親子を誅殺させて取り除く。陶氏と尼子氏は折敷畑の合戦に連携して毛利を討つ計画があった。毛利は尼子に敵対する三村氏を支援して尼子への牽制に成功する。


2. 少弐氏へ
 少弐氏へ肥前から豊前と筑前への攻撃を促す。


3.来島水軍へ
 村上通康と婚姻関係を結び来島村上氏の水軍勢力を力にすることができた。







4.陶氏へ内通工作
  陶氏家臣の江良房栄へ内応工作しそれを発覚させることにより討たせた。

5. 偽装内通
 桜尾城主の桂元澄の内通の文書を陶氏に送る。

 以上のような様々な調略で、元就は南北西方と周りの領国に手を打ちましたが、それだけでは陶氏に勝てるわけではありません。兵力が少ない毛利氏にとって敵の兵力を分散させ、その虚ををついてこちらの兵力を集中して勝つしか手段がないわけです。 それゆえに、「厳島を取られたら毛利には勝ち目はない」という虚報をわざと知らせます。見事に陶軍の厳島への誘引が成功して、本土側を侵攻する部隊と厳島に押し寄せた主力に分断させた。


 また少数の軍が大軍に勝ためには敵の大将を討ち取るしかありません。暴風雨を押して夜陰に厳島に上陸した毛利軍は山越えの奇襲作戦で陶軍を混乱させ、島ゆえに逃げ場のない大将陶晴賢を討ち取りました。 宮尾城で足止めしていた陶軍を後詰め決戦の戦術となり打ち破りました。

 元就は味方を鼓舞するために、この戦いでも包ヶ浦に上陸した時に、獣道から下りてきた鹿を見つけて、「天命が幸運の鹿でわが軍を導く」とか博奕尾の山頂に来た時は「もう博奕に勝ったようなものだ」とか細やかに発言した逸話が伝わっています。吉田郡山の山間部の地方豪族から中国の大大名になった元就ですので、知略にはすごいものがあります。子供たちにはそれは受け継がれなくて関ケ原に敗れて2か国の大名になってしまいます。

    2017-6-15

 



       折敷畑合戦(おしきばた)





  折敷畑古戦場に3日間かかり行きました。 初めは自転車で、東側の速谷神社の方へ行ったようです、見つからずに断念。 翌日に観光課に聞きに行き、下図のような地図をもらいました。バスでの行き方を訪ねましたが、担当者は行ったことがないとのことで、教えてもらえませんでした。
 3日目も自転車でめざしました。専念寺までたどりつきましたが、徐々に坂道の登りになってきたので、 しばらく行ってJR宮内串戸駅まで戻り、そこからタクシ−に乗る。折敷畑山のふもとで、3人ほどの住人に尋ねて、やっと登山道入り口につきました。しめて3300円也です。 まだここまでは良かった。





 JR宮内串戸駅よりの地図




 登山道入り口


  登山道入り口 プレ−ト




   案内プレ−ト

  いよいよ白いプレ−トの案内板の矢印の方向へ登山開始です。 徒歩1時間とのことですが、まあ、大変、ほとんど訪れる人がいないのか、登山道はまったくメンテナンスがされておりません。倒木があちこち道を塞いでいますし、草が自由に茂って邪魔します。山刀でジャングルのように斬り刻んで進みたいほどです。案内板の方向表示に間違いがあれば迷ってしまいますが、これは幸いにも正しかった。それでもこちらが見間違えたことがあり、行けども、行けどもおかしいと感じ引き帰したことがあった。途中で枝を拾い杖にして、登り下りに支えとしました(これは非常に役立つ)。 途中で鎖が道に沿って50mほど敷設してあるところがあります、急な所なのでこれを掴んでなければ上り降り出来ないところもあった。 目的地(8合目)近くになると、日ごろ使っていない骨が痛み筋肉がツリそうになる、息が切れるので10m行っては深呼吸で休息する、この繰り返しでやっと到着しました。桜尾城を望むところへの案内板があり、そこに行ったみたが、 木が生い茂って視界をさえぎりはっきりと城跡(桂公園)を見ることができませんでした。




  倒木が道を塞ぐ
 



   8合目にある 宮川甲斐守陣地跡




  はるか厳島を望む



  折敷畑の戦いとは、 1551年に大内義隆が重臣・陶晴賢らによる謀反により討たれた時に、毛利氏は大内氏に従属していた。その時に、石見国津和野の吉見正頼(源範頼の子孫)は陶氏に挙兵した。毛利氏は大内氏を離れ離反・独立を図った。 陶氏の家臣・宮川房長は毛利氏と戦うべき桜尾城を見下ろせる折敷畑山に布陣した。桜尾城から出陣した毛利軍は3方向に分かれて急襲して倍近い敵兵を撃破した。 厳島の戦いの1年前でその前哨戦ともいわれる。







 2枚の地図 歴史群像より


  急峻になっている尾根道を歩くところから、風の強いことが予想されるときには、飛ばされないように注意が必要です。行きに2時間帰りは1時間ですが、帰りとて楽ではありません。帰りは4季の丘団地へ下る道を選びました。幅50cmで急な崖路を下るところがあり、滑落したら命の危険があります。携帯を持たなかったり、通じなかったり、単独であるなら、月に1人くらいしか通行する人がいないようなところなので、助けを求めることは絶望です。数年前に広島で大雨後の土石流の事故があったのを憶えていますが、その土石流が流れた水路のような急な下り道を降りてくるには、1歩1歩杖で支えて降りるほかなく、落ち葉の貯まった道を滑べらないように降りる必要があります。




 落ち葉で滑りやすい下り道

 無事に四季が丘小学校の横に下ることができました。そこから15分ほどでバス停があり、帰ることができました。 わかりにくいが、ここからの往復する登山路を選択すると、四紀が丘行バスが使えます。でもあの50cmの崖道を2度通る気にはなりませんが。



 四季小学校近くの登山道標識


 老婆心からの 登山注意点
1. 雨天の日または翌日は避ける。 すべりやすいので。
2. 7-8m以上の風の吹く日は避ける。
3. スパイク靴、登山靴など滑りにくい靴を用意する。
4. 杖と軍手を用意する。 ロ−プやピッケルを用意できればさらに良い。



    2017-2-24




     厳島の合戦場 を訪ねて  
 

   日本三大奇襲のひとつと言われる厳島・宮島に行ってきました。他は桶狭間と川越夜戦とのことです。

 ヨットで行く予定でしたが、おまけに係留地の近くにも拘わらず、病み上がりなので、今回は観光客と同じく広電とフェリ−で行くことになりました。


 前年に折敷畑の合戦で毛利氏は陶氏に前哨戦で勝利した。毛利元就は厳島の合戦に陶晴賢を破り、これを契機に中国地方の大大名になる。陶晴賢の墓は廿日市の洞雲寺にあります。



 両軍の動き  歴史群像より


 毛利軍の厳島への行軍進路 歴史群像より

 さて、広電阿名東で下車して広島方向に戻ると2−3分で火立岩跡・毛利軍出発の地・乗船地の標識がある。天気が悪化している雨の夜にここから毛利軍は乗船して、陶軍の背後の地・包ヶ浦に向かった。




 火立岩跡  それらしい岩は見当たらない



 宮島口で広電を下車、すぐフェリ−に乗って厳島で下船。目の前に岡・要害山がある。そこに毛利が設けた宮尾城で籠城して陶軍を迎え撃った。

 




要害山は小高い丘のように見えるが崖が際立つ宮尾城跡



 陶軍はすぐ近くの塔の丘に大軍で本陣を構えて対陣した。 宮尾城から塔の丘を望むと、今では五重塔が立っている。

豊臣秀吉が建造して未完の千畳閣もある。








 塔の丘にある五重の塔 豊国神社




 千畳閣 秀吉未完の建物・重要文化財



 その内部 秀吉死去で未完ゆえ壁がない。

 要害山を登り、すぐのフェリ−乗り場前広場からタクシ−で上陸地の包ヶ浦へ向かう。ここで毛利元就は乗ってきた船を返した。背水の陣で陶軍に立ち向かう。  

 今はキャンプなどを楽しむ自然公園になっていた。

 帰りのバス便が少ないので、時間があり、予定外で毛利軍の山越えのル−トを歩くことになった。遊歩道が出来ており、 整備が今までに経験したものより比較的良い状態であったので、老人でも1時間半で登ることができた。

 


 毛利軍上陸地・包ヶ浦


 包ヶ浦自然遊歩道入り口  ロ−プウエイのもみじ谷に向かう


 比較的整備されている遊歩道


 頂上の博奕尾(ばくちお)案内板



 毛利軍の急襲で油断していた陶軍は総崩れになった。陶晴賢は打ち取られる。

 お約束どおりの雨天の日、散策することになった。




 厳島神社  干潮時



   2017-6-4 



 
      桜尾城

 

 広島県廿日市市にあった当時は3方を海に面した海城です。 鎌倉時代に藤原親実が厳島神社の神主となり桜尾城を築いたといわれる。 室町時代には武田氏や大内氏の支配です。戦国時代には毛利氏の支配となった。毛利氏家臣の桂元澄や毛利元就の4男穂井田基清が城主になる。
  


大正時代の桜尾城


  桂元澄の末裔である桂太郎がここを買い寄付して、現在は桂公園としてある。台形をなした高台の公園が現状です。そこを見に行った時は、女子中学生が集まってにぎやかにしていました。

 桂太郎は明治の元勲で、日英同盟を結ぶなど、日露戦争のグランドデザインをした人です。彼なしでは勝利することはできなかったでしょう。

          


 桂太郎



  


   史跡桜尾城 



  


  公園からの下り坂道

 


  


 桂太郎の寄付 桂公園碑




  藤原親実が鎌倉幕府より桜尾城主に着任後(1220)に1233年に
天満宮を作ったといわれる。

  


  廿日市 天満宮



 また近くに菩提寺として洞雲寺があり、桂元澄のお墓や毛利元就が屋島の合戦で
討ち取った陶晴賢を桜尾城で首実検してこの寺に葬ったということです。


  
 


  洞雲寺



  


 桂元澄 夫妻の墓



  


  陶晴賢の首塚  洞雲寺境内




     吉田郡山城

  

 毛利の本拠地だった吉田郡山城に行ってきました。広島からは1時間45分かかるうえに、1時間に1本くらいの間隔で運行しているバスでしか行けない不便なところに、今はなっています。

 日本屈指の山城といってもよいと聞いていますが、実際に眺めてみますと、急峻な山のイメージではありません。標高300mですが比高200mで徒歩1000mくらいで本丸にたどりつけます。3層の天守閣があったといいます。
  毛利氏が大きくなるに従い城規模も大きくなりました。 国人領主のころには山の一部の本城の郭として残っています。

 広島城に移るまで、ここは使われていました。 関ケ原の戦いで敗れ、萩に転封になると廃城になります。


 歴史博物館から毛利元就のお墓に行き、その横にある山道を1000mくらい登って行くと本丸にたどりつきます。 博物館近くで杖(無料)を貸してくれるところがあり、それを利用すると歩くのに便利です。ちょうど小雨降りで傘を持っていたので杖替わりでそれを使いました。雨量の多い日には整備が悪いので、本丸まで行くのは止めたほうがよいでしょう。 そうは言っても、普通でも本丸まで足を延ばす人は多くはないようです。 遺跡の現状に変更を加えることはできませんが、あまり環境がよいとはいえません。

 帰りは尾崎丸を経由する山道があります。この道が昔に使われていた登城道のようです。


  


  吉田郡山城  遠景



  


  古図



  



   毛利元就のお墓




  


  本丸跡  後ろの高台が望楼台跡で一番高い所


  



   2の丸跡


  


 御蔵屋敷跡に残る石垣


        2016-9-26




     広島城



   毛利氏は関が原で負けて30万石余りで萩に押し込まれるまでは大国でした。 吉田郡山城に本拠を構えていましたが、内陸の山間部盆地では施政に不便を感じて広島に城を築城して移転します。
 幕末の長州藩の意識がこちらには強すぎて、広島城を毛利氏がつくったとは思えません。 実際に見てみますと茶色の板壁が、しっくいの白壁でできたお城とは印象が違い、エレガントに感じます。 原爆で天守閣は全壊してしまいました。現在はコンクリ−トで再建したものです。 二の丸は木造で再建されています。
   






  2の丸遠景


  


  2の丸 入口


  


  天守閣

  城内にある護国神社で、最近は大変に珍しい白無垢の美しい花嫁さんをみかけました。 また本丸には日清戦争のときに明治天皇がおられた大本営跡や師団本部の跡もあります。

  


  城内護国神社での白無垢花嫁さん


    2016-9-28





     岩国城



 雨の日はヨットの整備を休みにして、付近を散策します。写真が鮮明でないのはご容赦ください。

 岩国城に行ってきました。有名な錦帯橋は岩国城と街を繋ぐための橋だと知りました。 山城で本丸は山で、ふもとには2の丸や3の丸があり、それと城下町をその橋で結んでいました。





 錦帯橋



 完成からわずか7年で廃城となった。 1615年の1国1城制ができると支藩の岩国城は本藩・長州藩の串崎城の廃城と合わせた。





 城図




 吉川広家 1561-1625

 吉川広家は最近になって、関が原の戦いの最大の功労者といわれています。家康も広家に防長2国を与えるつもりが、広家は本家の改易を防ぐためにその2国を本家に与えるよう交渉し、自分は岩国3万石(後7万石)に甘んじた。子供の心を親知らずでしばらくの間陪臣の地位に貶められていた。




 本丸石垣






霧にかすむ 再建天守 コンクリ−ト造り



中級家臣の目加田屋敷や家老の長屋門がふもとに残っています。




 旧目加田屋敷



      2016-12-13




      八条原城



八条原城(志和神社)と志和盆地の閉塞予想箇所 赤☆5か所


 神機隊の本陣跡・西連寺から徒歩で八条原城跡(志和神社)に向かいました。今夏の集中豪雨の影響を受けて名前を知らない小河川の屈曲部には土嚢が積まれて改修が待たれている場所も見受けられます。 芸備線と山陽線に挟まれた盆地です。この地は駅から徒歩では利用できず、日に5-6便程度のバスしかなく、車が無いと生活は不便でしょう。

 幕末に外国との脅威が意識されると、海沿いの街は脅威を感じていました。幕府による江戸の台場、佐賀藩の長崎外海の砲台、福岡藩の犬鳴御別館、長州藩の勝山御殿などがその対策に設営されました。同様に広島藩は海に近い広島城に不安を覚え、広島より20kmばかり北東にある志和盆地に城を築きました。経済的に恵まれた雄藩にしかできませんでしたが。

 志和盆地は700m級の山に囲まれ、内村越・小原峠・御堂原・榎山峠・湯坂峠・関川(地点を地図で特定することはできませんでした)を封鎖することによって、志和盆地全体を一大拠点として要塞化できることや、この地で8000石が収穫できて自給体制に不安が少ないことからこの地が選ばれる。実際に幕末には神機隊から残存部隊が封鎖個所を警備する。

 藩主邸宅、政事堂、米蔵、練兵場、文武塾が作られた。明治2年12月になり明治が安定すると工事は中止される。




 志和神社(八条原城)





 八条原城跡 石碑と碑文





 図面





 この麓にあり



   2018-11-4
 






     五日市城 (幸崎城・光明寺城)



 五日市付近地図


 携帯のマップを使って不案内の地を散策していた。 その画面に五日市城跡があったので探してみる。 携帯を見ながらウロウロとしていると、そこは道の突き当りであった、買い物帰りの女性が「どうしましたか?」と声をかけてくれる。五日市城跡のことを尋ねました。近くに急傾斜地になっている小山があり、家も建っていて住んでいる人もいるようでだが、そこではないかと教わりました。





 奥の小山で家が建っている城跡




 急傾斜地駆の立札案内


 調べてみると、この地に亀山と小亀山と呼ばれた小高い場所があり、西側に江戸時代まであった八幡川があり二つの並んだ小山を利用した五日市城であったという。 亀山はすでに壊されて宅地になり、現在、日本アライアンス教団の教会がある。教えて頂いた女性は今考えてみると、この宅地に住まわれており、灯台下暮らし、御当人もお気が付きでなかったようです。






 日本アライアンス教団教会



 この地は厳島神社領であり隣接した武田氏、後には大内・陶と毛利との対立で重要視された。宍戸氏の居城あった。近くの海老山城を支城として持つ。毛利氏がこの地を抑えてからは城の重要性が無くなる。


   2018-11-7






     草津城・安芸



 スマホのグ−グルマップを利用していると、城跡がよくのっています。それで草津城へ行ってみました。 瀬戸内海沿岸の地形は海岸近くまで200-300mの山がせり出していて、平地の部分は限られている。 そこで近代化が進むとその土地は鉄道や道路用地が土地を寸断してしまう。 この草津城も山陽線、広島電鉄、道路で分断された。すぐ高層のマンションも隣接している。

 草津城は麓にある草津湊(現在は埋め立て)を水軍の拠点として重きをなしていた。 城主は厳島神社,安芸武田、大内・陶、毛利と変遷した。毛利氏になって、水軍の将である児玉氏が治めた。大阪の本願寺に米を届けたのもこの児玉氏である。明治の児玉源太郎は子孫にあたる。 関ケ原以降は福島正則が受領して、ここに大門を作り、城を廃した。




 草津城跡、 道路が迫る




 山頂にある城跡石碑と案内板




 草津城登山口



 


隣接するマンション






南海側から草津城を望む



  草津まち散歩



  2019-7-15