速魚の船中発策ブログ まとめ





映画 永遠のゼロ

上原良治氏の特攻

陸軍桶川避航学校

妻との特攻

彗星夜襲隊 美濃部少佐

不死身の特

日本の軍隊の致命的欠陥



















































































































特攻 まとめ





    映画  永遠のゼロ  
 
            

 オタクの老小生ですがこの映画の原作・百田尚樹
さんの文庫本で250万部のベストセラーになったこ
とは知りませんでした。同じようにゼロ戦を描いた
宮崎駿さんのアニメ・風たちぬを見たときの予告
編でこの映画を知りました。

 宮崎さんのものは古風な恋愛もののようでしたが、
今までのものと違い期待外れの感がありました。
紅の豚のほうが良かったなあ。

 この映画の主人公・宮部はフィクションで実話的
な話ではありません。
百田さんは放送作家主出身ですので、さすがに
シナリオの展開やまとめ方はウマイです。

 また小生はストラテジイーゲームのオタクでも
あり、第2次世界大戦ものは大好きです。その
ゲームでも、ゲームデザイナーは核や特攻を封じ
てゲームを作っている人がいます。この映画は
特攻を前面に打ち出して描いたものです。

 戦前の軍部官僚制は戦時でも平時の昇進制度を
維持していました。勝つことよりも官僚制の均衡
ある人事のほうを優先していました。
満州事変の首謀者・石原莞爾は開戦前の16年8月に
予備役になっています。この事実を知ったとき、
庶民は事情を考慮することもなく徴兵したのに、
戦争のための軍人を使わないのかと愕然としま
した。

 宮部は戦前に養成された下士官のベテラン
パイロットで特攻に志願しなければ、特攻護衛
パイロットとして生き延びたことでしょう。士官学
校出やベテラン下士官は学徒や徴兵された兵士
よりも温存され、生き延びました。ほとんど効果の
あがらなくなった特攻をやめることができずに続
けたことが問題です。この戦術を採用したことが
もっと重要ですが。あとに続くと話した司令官や
参謀たちも生き延びましたね。

 政治家はこれを言ったらオシマイですが、戦後
に戦争をしないでこれたのは、戦争放棄をしたこと
でも、アメリカ下請けの自衛隊を持ったことでは
なく、日本人を本気にさせたら、また特攻を始め
るぞと恐れられたからではないでしょうか。
 またぞろ、命令に従わないものは死刑だ、無批
判な愛国心を求める動きがあります。
ただ単に旧軍の復活と態勢をつくろうとする人々
には注意しましょう。

 特攻で亡くなられた人々や北海道の分断を阻止
してくれた人々、戦死されたおおぜいの人々に感謝
をしなければなりません。

 最後に主人公が艦上で遺体が発見され米国の
海軍葬で水葬されたところがあったようですが、
老人の悲しい性ですか、ガマンできずに途中で
トイレに立ちました。そこ見そびれました。
つまらないオチです。

        2013-12-24


    
  追補    

 呉市大和ミュージアム館長の戸高一成さんが特攻
について述べています。太平洋戦争が際立って他の
戦争と異なるのは、組織的に特攻作戦を実施したこ
とである。

 制度として体当たり攻撃を編成し、制式兵器として
体当たり専用兵器を開発し、命令によって隊員に
体当たり攻撃を命じた。軍令部の方針として19年
春には特攻作戦実施が決定されていた。問題は
このように準備しておきながら特攻の開始も隊員も
自発的なものとしてきたことだ。

 政府は死を命じることから逃避しようとした。
 純粋でまじめなで精強な兵士を使った指導者は、
有能・無能であったかではない、無責任であった。
部下の命を無責任に浪費した。特攻の指揮官は
自分も後から必ず行くといって送り出した。終戦に
なるやこの約束を忘れてしまう。彼らは特攻隊員は
自発的に志願したとしてこれを顕彰することで償い
とした。同感です。映画で見かける特攻を志願して
1歩前に出る場面をそのまま信じてはいけない。


         2014-2-22

  






      上原良司氏の特攻  中嶋博昭編    


;  

   




特攻というこの重い事実に関して、映画永遠のゼロにも涙しましたが、乳房橋で
上原良司さんがお母さんに3度も、いつにない大声でさようならと叫ぶ描写も涙無し
には読みすすめません。

 百田さんは戦後生まれの作家ですので、たくさん資料を集められて思考された
と思われます。この本も絶対に読んでおられると思います。しかし上原さんを
主人公にしないで、なぜ実在しない宮部を創作したのでしょか?
そこが彼の大事な意図ですね。しかし結果的には彼は宮部で成功します、
庶民の支持を得てベストセラーになり、映画化もされました。また安倍さんの
ブレーンとしてNHK経営委員に就かれています。
 
 上原さんは戦争に行って死ぬんだとの自覚を持ちながらも、ノンビリと現在と
変わらない学生生活をエンジョイしている日記を残しています。当時も今の学生と
同じですね。学徒出陣までは意外とケーキ・すし・すき焼きなどを食べることができた
ようでした。また意外にも軍隊に入ってもこんなに煩雑に親兄弟・親類に面会でき
たり、やりとりできたのですね。強い家族愛で結ばれています。
 上原さんはこの戦いは敗れるのは必定で、戦後の自由社会の実現まで予想して
いながらも、特攻を命ぜられてその運命より逃れることはできませんでした。
志願として強要された献身であった。仕方ないと心で泣きながら応じざるを得な
かったのが実情です。
 特攻が決まったあとの車内の風景という記述では、庶民の戦争どこに在りやと
いう顔つきをしている、我体当たりをしたあとも数日もこういう風景が続くので
あろうか凝視して書いています。
 彼の出撃104機でわずか3隻の損傷を得たのみでした。沈没なし。
連合軍の対応がすすんで戦果が乏しい状況です。その後も終戦まで特攻を続け
ました。あとに続くと激励していた上官も戦後生き延びる。軍部・軍事官僚は
戦後は特攻は志願であると自分の責任逃れのために顕彰してみせた。
学徒や兵を消耗品として扱ったこと、戦術・戦略の失敗の責任をとることは
ありませんでした。
 今もそうですが権限・権力とそれの責任を明確にしておかなければなりません。
原発事故で人災にも関わらず誰ひとりとして責任をとっていません。
過去の問題ではありません。

 


  青春の追憶 この音楽  プロコルハルム  青い影  6分
  45年前と同じ声で歌っています。胸が苦しくなって思わず涙がでそう.......心筋梗塞の前兆と云われそう。
    https://www.youtube.com/watch?v=St6jyEFe5WM

  我歌姫 ブライトマンも歌う もちろん生まれていません。 4分
     https://www.youtube.com/watch?v=nOlVhgEOPp8



    ちゃんぽん食べたかあ
      追補 さだまさしさんの戦友

    http://hayame.sblo.jp/article/162161657.html?1541547488







      陸軍桶川飛行学校  練習機での特攻

    熊谷陸軍飛行学校桶川分教所

 

   
   元桶川飛行学校跡

  桶川市川田谷にある元桶川飛行学校に行ってきました。 荒川沿いの本田飛行場(元桶川飛行学校 滑走路)の近くにあります。 日本で唯一現存する飛行学校の宿舎が残っており、現在は展示物をその中で公開(土日祭日)されている。
 なお現状は70年以上経たものゆえ痛みが厳しく、保守普及作業も計画されている。

  
  展示


 個人的には爺爺は海軍経理学校の宿舎を利用した学校の寮生であったので、懐かしさを覚えました。その48年前でも2階廊下から下が透けて見えるほど老朽していて、1年で建て替えて鉄筋の新寮になりましたが。

  桶川飛行場は、熊谷にあった陸軍飛行学校の分教場で、召集下士官や少年飛行兵、特別操縦見習士官などの操縦訓練をしていた。初心者用の通称「赤とんぼ」という複葉の飛行機が16、17機あり、数か月に一度、50〜70人の学生が入学してきて、気象学、航空工学や基本操縦を学んでいた。生徒・学生、本部兵舎の事務職員以外に、飛行場には、飛行機の整備班、燃料担当の補給班、格納庫内の雑務を担当する庫内班などがあった。

  
  練習風景

  
   整備風景

 初練、中練という操縦の基本を教える学校であったが、時には、高等練習機による高度な操縦を教えることもあった。学生は、ここを卒業すると、福岡の太刀洗(たちあらい)飛行学校や外地の飛行場で、実戦機の訓練に入った。

昭和20年ごろになると、桶川分教場は、特攻隊の訓練基地も兼ねるようになり、特攻練
習用の97式戦闘機や99式高練(高等練習機)など、実戦機に近い飛行機を使用した。




   
   キ55 99式高等練習機 昭和15年配備 1386機生産


 昭和20年4月5日、第79振武特別攻撃隊12機(99式高等練習機)が鹿児島知覧に向け進発した。

  
  第79振武隊12名 4月16日出撃


山田信義大尉 (昭和20年4月16日出撃)愛知県出身
郷田志郎大尉 大分県出身
二村(ふたむら)源八大尉 大分県出身
清水義雄大尉 滋賀県出身
田中富太郎大尉 群馬県出身
山本研一大尉 京都府出身
難波武士少尉 岡山県出身
佐藤新平少尉 岩手県出身
上野實少尉 茨城県出身
川島猪之助少尉 栃木県出身
池田保男大尉 (昭和20年4月22日出撃)新潟県出身



  歴史

昭和12 6月  熊谷陸軍飛行学校桶川分教所開校 下士官操縦学生入校
 昭和15 2月  木造格納庫完成
 昭和16 12月  開戦
 昭和18 4月  少年飛行兵入校 桶川教育隊と呼称
 昭和18 10月 特別操縦見習士官第1期87名卒業71名(学徒出陣)
 昭和20 2月  熊谷陸軍飛行学校廃止 特攻講習開始
 昭和20 4月  第79神武隊進発
 昭和20 4月16日 第79神武隊は沖縄で特攻により散華された
 昭和20 8月15日 終戦  その後廃校  戦災被災者の施設として利用

土・日曜日と祭日に建物内部を公開しています。 近くに改修作業で公開が中断される可能性があります。 お問い合わせ桶川市役所 048-786-3211


     2015-12-5






      妻との特攻 谷藤徹夫・朝子  

            豊田正義著 角川書店


   
          


  夏の恒例の戦争特番ドラマとして放映されました。 ご覧になった方も多いと思います。  終戦後の8月19日に満州で特攻がありました。それも2人の女性が同乗していました。 元軍幹部はあれは命令による特攻でないから、単なる自殺行為だと蔑み、女性を同乗させたことを軍紀違反と非難した。彼らは忘れられ犬死同然の扱いを受けました。
  しかし元第5練習飛行隊の有志が立ち上がり厚生省と交渉して昭和32年に戦没者と認定され遺族は年金を受けることができた。昭和42年には世田谷山観音寺にかれらの神州不滅特攻隊の慰霊碑が建立された。

  彼らは二宮准尉による偵察により、関東軍(山田乙三総司令官)が開拓民を見捨てて撤退したあと、避難民がソ連軍による虐殺・葛根廟事件を見たことから、一時でも戦車に体当たりして進撃を止めようとしたことが特攻の理由だといわれています。関東軍は、 居留民の保護を目的として始まった歴史を忘れた行いをしました。 

 一方では、根本博満蒙軍司令官はすべての日本人の避難が終わるまでの自衛戦闘を行い武装解除をしませんでした。 また千島列島では樋口季一郎将軍は占守島に終戦後に上陸戦闘を仕掛けてきたソ連軍を撃退しました。北海道を守りました。

  いずれも上部からの指令に違反した司令官の見識と独断による決断です。軍隊といえども最後は自分の責任による判断が必要とされます。 何万人のも命を救うことになりました。 昨今の阪神大震災の折に救助が遅れた陸上自衛隊司令官が涙を流して弁明しましたが、旧軍の良かった面は継承されていないようです。 石原莞爾の独走を引き継がれても困りますが。


  神州不滅特別攻撃隊

  1.  今田達夫 少尉   広島 26歳
  2.  岩佐輝夫 少尉   北海道 25歳
  3.  馬場伊代次 少尉  山形 24歳
  4.  大倉巌 少尉    北海道 23歳
  5.  宮川進二 少尉   東京 23歳
  6.  波多野五男 少尉  広島 22歳
  7.  北島孝次 少尉   東京 22歳
  8.  伴元和 少尉     石川 年不明 エンジン故障
  9.  二宮清 准尉     静岡 27歳 
  10. 日野敏一 少尉   兵庫 21歳
  11. 谷藤徹夫 少尉   青森 22歳
     谷藤朝子       24歳
     スミ子         不明  

  特攻は2階級特進して大尉の階級で記録されたものをよく見かけます。少尉クラスの下級士官を特攻に従事させたからです。今回はそれもされていないようです。

     奇跡の将軍 樋口季一郎  68分  いいね 
     https://www.youtube.com/watch?v=4caq5e_toz8
                  

            2015-12-30






      彗星夜襲隊 美濃部正少佐




 渡辺洋二著



  3式戦闘機飛燕はそのスマ−トな外観ゆえ最も爺の好きな戦闘機です。しかし水冷エンジンを搭載したせいか、整備慣れせず稼働率の低い戦闘機でした。ここに登場する彗星も真珠湾で活躍した99式艦爆の後継機で、 同じく水冷のエンジンを搭載していたせいで、部隊のやっかいものだった。 この飛行機を稼働率20-30%から80%まで上げて終戦まで夜間攻撃に成果を上げた部隊がありました。それも特攻をせずに。

 その部隊は海軍芙蓉隊でした。その司令官は美濃部正少佐です。彼は水上偵察機乗りのパイロットで、空母ではなく巡洋艦に積まれていて、偵察にあたるフロ−トのついた2−3人乗りの飛行機を操縦していた。真珠湾攻撃にも参加しています。ソロモン・ニュ−ギニア空域での大消耗戦に日本は負けて、正当な空戦を維持できなくなり、彼は夜間の空襲に活路を見出しました。戦闘機乗りパイロットが不足する中で、夜間洋上経験の豊富な水上パイロットを活用してのものです。

 沖縄戦の前に所属する軍の司令官会議がありました。 その会議は、フィリピン戦に特攻が始まり、次の沖縄では、鈍足の2枚翼の練習機まで特攻に使用すると決められていた中で、検討するというのではなく衆知下達会議の様相でした。 彼は命令に背いた罪に問われることも恐れず、その会議の最下級司令官・少佐でしたが、特攻の愚かさを語り、命令するものの無責任さを堂々と主張しました。よく批判するものに返す刀で代案を示せと反論せられますが、彼は、あの敗戦間際に燃料・時間の少ない制約の中で訓練・整備の実績を語って黙らせます。 あの状況で抗うごとなど誰でもできないでしょう。 爺が学徒出陣のパイロットなら特攻の志願署にサインしていたでしょう。 でも彼は終戦間際になり、米軍が九州上陸してきた場合にそなえ、部隊に特攻の準備を指せます。合理的に最後まで手段を探せ・尽くせということでしょう。 戦後になってのヒュ−マニズムの英雄に祭りあげられることには拒否しました。 娘にはどんな状況でもそれに流されずにおのれの道をすすめと教えています。 彼は航空自衛隊の空将になります。 都知事になれなかったおかしな空将がいましたが、自衛隊に良い影響の残してくれたと期待します。

 特攻に散った将校で少佐以上は数名です。指揮官・参謀クラスの将校はあとに続くと言いながらも、戦後は、位が高い故の高い恩給をもらい天寿をまっとうしました。理不尽なものです。




 彗星21艦爆


  参考資料


   斧ににきをつけろ

  http://plaza.rakuten.co.jp/eugene/3004/


   特攻拒否を貫いた芙蓉部隊 元飛行兵長の回想 上下

 http://www.jiji.com/jc/v4?id=fuyou201508a0001

 http://www.jiji.com/jc/v4?id=fuyou201508b0006

     2016-12-10







          不死身の特攻  佐々木友次    

                  鴻上尚史著





  毎年夏になると「戦記もの」の出版が多く書店で目にします。気になっていた書物「不死身の特攻」を遅まきながら11月に購入。一気に読みました。

 陸軍の最初の特攻には「命令」により優秀な飛行乗務員が集められて決行されました。 その一人に佐々木友次伍長が選ばれて、結果的に9回出撃して戦後まで生き延びました。
彼が亡くなる前に作者が彼をインタビュ−して、それがこの本に記されています。




 特攻前に乾杯する万朶隊員、左から佐々木友次、生田留夫、田中逸男、久保昌昭、奥原英彦


 この本の中には余り知られていなかった特攻にまつわることも書かれています。 

1. 特攻から生還した人を福岡に収容した振武寮が設置される。この管理将校に倉沢清忠少佐がいた。 彼は陸軍大学卒の航空将校である。 泥酔している倉沢が食堂に来てクズだ,卑怯者と収容者を罵倒した。ノモンハンでの敗戦の後に参謀が現地指揮官に自決を強要したことと同じように彼がしたという。その倉沢は戦後に一橋大学を卒業して印刷会社の社長に栄進する。彼は復讐を恐れて1996年まで51年間軍刀と実弾を込めたピストルを手放すことはなかった。

2. 特攻を始めた大西瀧次郎中将は「もう戦争は続けるべきでない」と言った。「特攻によるレイテ防衛は九分九厘成功の見込みは無い」。なぜ特攻をするかと云えば、天皇陛下が特攻のことを知れば戦争を止めろと仰せられるであろうこと、いかなる講和になろうとも、身をもって民族の滅びるのを防ぐ若者たちがいて、陛下の御心によって戦を止めさせられた事実が民族の再興するであろうと大西は述べたという。
 大西は終戦のとき自決した。

3. 南ス−ダンの駆け付け警護に対するアンケ−トが自衛隊で行われました。3択で「熱望する」「命令とあらば行く」「行かない」であった。「行かない」を選ぶと、上司に呼ばれて「なんで行けないのだ」とえんえんと問い詰めらたと匿名の自衛隊員は語った。結局「命令で行く」と答えた。 駆け付け警護は特攻とは違い必死の作戦ではないが、どこかで聞いたようなエピソ−ドではある。

4. 戦後になり、特攻隊員の遺族2000人を訪ねて遺書1000通を集めた。特務機関の一員と詐称し口外を禁じてこれを行う。不都合な証拠隠滅のためでしょうか?

5. 陸軍の爆弾には徹甲弾がなく、開発もせず、海軍からの提供も受けずに艦船沈没を企んだ特攻作戦を実行した。 映画などで特攻の映像を見ると、よく艦船の横腹をめがけて特攻機が突入しているのをお目にかかる。 実はこの戦法は、艦船のもつ防空火力の全部を受けることになることと、接敵時間の短いことからマズイ攻撃戦法である。    ベストの戦法は艦の後方から同一方向に同航することにより接敵時間の長きことを利用して命中率を高め、おまけに敵艦からの防空火力の少ない恩恵がある戦術である。

 1日ちょっとで読めてしまう本ですので、皆様もお読みになることをオススメいたします。

 ウイキペデイアに振武寮のことがあります。 ウイキは辞典的なもので面白みに欠けることが多いのですが、振武寮については、さまざまなエピソ−ドがのっており、ウイキとは言えない楽しめる読み物になっています。


振武寮のウイキペデイア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%AF%E6%AD%A6%E5%AF%AE

  2018-11-14






  日本の軍隊の致命的欠陥 

          日下公人さん、小室直樹さんによる




 練習機による特攻訓練


  なぜ日本は兵隊に降伏をゆるさなかったのか、また、特攻作戦をしたのか、それは軍の指導者が兵隊を信用していなかったからだ。 艦内でも兵舎でもいじめが横行していても、放置されたのは強制的な命令で兵を動かしたかったという理由からでしょう。

 特攻で、「もし爆弾を落として帰って来ていいのなら、皆たいした攻撃をしないで帰ってくるのではないか」という国民不信の思想だった。 なぜ、そうなるかというと、その根本は民主義国家じゃないわけで、「戦争目的ついて国民の合意を得ていない」と、戦争指導者自身がそう思っているからです。 国家が国民を信用していないのだから、日本は根本的に弱い。上の人が勝手に戦争を始めたから、下がついてくるか心配だ。 アメリカとはそこが違う。 アメリカでは大学から志願兵が殺到した。 自発性を問うことなく、学徒出陣をさせたように、嫌がるのを無理やり連れていった。

 軍人が兵隊を信用していない、一方では、軍人は国民から尊敬されていない。軍人は尊敬されようと思って、部下に対しても、誰にでもヒステリックになった。

 軍は欧米では戦争を機能的要請とする機能集団です。ところが、日本では機能集団であると同時に共同体になってしまう。 その特徴は、人間関係が最優先される。 海軍では仲良しクラブといわれ、敗戦責任を提督は問うようなことは無かった。 陸軍はシナ撤兵を拒否して日米戦争に突入した。
 負けるに決まっている日米戦争に突入すべきではありません。共同体になっていると、それの要請が絶対的に優先されてしまう。 戦後になっても続くお役人の無責任体制は、省益が優先され国民のためを思っていない、共同体お役所村が続いているからです。


    2019-1-17