速魚の船中発策ブログ まとめ
幕末年表
幕末の出来事は月日の表示を必要とされるほど、めまぐるしいものになっています。従来の年さえ憶えておけばよいというものではありません。
入試に限らず、年を覚えるのは、歴史好きの小生でも、若いころから苦手でありました。
今度、幕末の詳細年表をまとめてみました。調べてみても、事により一致しないものもあり不明確なものもあります。こちらのミスもあることより、未完成で参考までにということにしてください。
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年 |
元号 |
和暦 |
西暦 |
事項 |
1840 |
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アヘン戦争 |
1853 |
嘉永6年 |
6/3 |
7/8 |
ペリ-来航 |
1860 |
安政7年 |
3/3 |
3/24 |
桜田門外の変 |
1863 |
文久3 |
5/10 |
6/25 |
下関外国船砲撃、攘夷期限 |
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6/6 |
7/21 |
奇兵隊結成 |
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7/2 |
8/15 |
薩英戦争 |
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8/18 |
9/30 |
8.18政変 |
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7/18 |
8/20 |
禁門の変 |
1864 |
元治元年 |
7/23 |
8/2 |
第1次長州征討 |
1865 |
元治元年 |
12/16 |
1/12 |
功山寺挙兵 |
1866 |
慶応2年 |
1/21 |
3/7 |
薩長同盟 |
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6/7 |
7/18 |
4境戦争・第2次長州征討 |
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10/10 |
11/16 |
幕長休戦協定 |
1867 |
慶応3年 |
6/10 |
7/11 |
船中8策 |
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10/14 |
11/5 |
大政奉還 |
1868 |
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12/9 |
1/3 |
王政復古 |
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慶応4年 |
1/3 |
1/27 |
鳥羽伏見の戦い |
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4/11 |
5/3 |
江戸無血開城 |
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明治元年 |
9/8 |
10/23 |
明治改元 |
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明治2年 |
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3/2 |
版籍奉還 |
1872 |
明治5年 |
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12/28 |
徴兵令 |
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2018-4-5
幕末詳細年表
年 元号 和暦 西暦 事項
1825 異国船打ち払い令
1832 天保3 調所広郷家老になる。
1837 天保8 大塩平八郎の乱
1838 天保9 村田清風が長州藩政改革を始める
1840 蛮社の獄、アヘン戦争
1841 天保の改革
1848 嘉永元年 調所広郷が自殺
1849 嘉英2 板倉勝静は備中松山藩主になる、山田方谷を元 締役と吟味役に就任させる。
1851 ジョン万次郎帰国
来原良蔵は吉田松陰の脱藩で処分を受ける
1853 嘉永6年 6月3日 7月8日 ペリ-来航
6月22日 7月27日 十二代将軍徳川家慶、死去
9月15日 10月17日 大船建造の禁が廃止
10月23日 12月23日 徳川家定、十三代将軍に就任
1854 嘉永7年 1月16日 2月13日 ペリ−再来航
3月3日 3月31日 日米和親条約
3月27日 4月24日 吉田松陰と金子重輔が米船密航失敗
1855 安政元年 11月27日 1月15日 安政に改元
安政2 山田方谷、幕府崩壊を予言
10月2日 11月11日 安政の大地震
1856 安政3 1月10日 12月3日 幕府 長崎海軍伝習所開設
周布正之助・松島剛蔵・来原良蔵ら嚶鳴社復興に参加
7月21日 8月21日 ハリス来日
安政4 12月18日 1月13日 家定と島津篤子の結婚
1857
6月17日 8月6日 阿部正弘病死
1858 2月3日 12月20日 吉田松陰、萩の松下村塾を叔父の玉木文之進から引き継ぐ
安政5
3月20日 5月3日 孝明天皇、条約勅許を拒否
4月23日 6月4日 南紀派の井伊直弼、大老に就任
6月19日 7月29日 日米修好通商条約調印
7月5日 8月13日 井伊直弼、一橋派の徳川斉昭、徳川慶篤、徳川慶勝、松平慶永を隠居謹慎などに処す。安政の大獄の始まり
7月6日 8月14日 十三代将軍徳川家定、死去
7月16日 8月24日島津成彬急死
8月8日 9月13日朝廷、水戸藩に勅書を送る(戊午の密勅)
10月25日 11月30日 家茂将軍に就任
11月16日 12月20日 隆盛と月照が入水自殺
1859 安政6
6月2日 7月1日 神奈川・長崎・箱館を開港
7月17日 8月15日 河井継之助が山田方谷を訪ねる
8月23日 9月19日 グラバ−来日
10月7日 11月1日 橋本佐内斬首
10月27日 11月21日 松陰処刑
1860 安政7
1月22日 2月13日 咸臨丸渡米
3月3日 3月24日 桜田門外の変
万延元年 3月18日 4月8日 万延に改元
5月30日 4月10日 万延小判通用開始、金銀交換比率が海外と同一に、金の流失止まる。
1861 万延2年
2月3日 3月13日 ロシアの対馬占領
文久元年 2月19日 3月29日 文久に改元
3月 長井雅樂は公武一和に基づく航海遠略策を建白
8月11日 9月15日 白石正一郎は薩摩藩の御用達になる
11月 長井雅樂は藩主・敬親と幕府に航海遠略策を建白
11月15日 12月26日 皇女和宮江戸城に入る
文久2
12月7日 1月6日 伊藤英国留学を志願
12月22日 1月21日 文久の遣欧使節出発
1862
1月15日 2月13日 坂下門外の変、安藤信正や久世広周ら公武合体派が失墜
来原良蔵は公武合体の周旋で熊本や薩摩に行く
2月11日 3月11日 公武合体の象徴として皇女和宮親子内親王婚礼
3月16日 4月14日 公武合体推進のため島津久光、兵を率いて入京
4月23日 5月21日 寺田屋事件
6月 長井雅樂は免職
7月9日 8月4日 松平慶永が政事総裁職に任命される
8月1日 8月25日 三事策に基づき、一橋慶喜が将軍後見職に
、
8月5日 8月29日 来原良蔵は切腹した
8月21日 9月14日 生麦事件
閏8月1日 9月25日 松平容保、京都守護職に任命される
11月2日 12月22日 攘夷実行の遵守を決定
1863 12月12日 1月31日 高杉晋作ら長州藩士10名、英国公使館焼き討ち
12月22日 2月10日 塙忠宝(はなわただとみ)暗殺される。
文久3
2月 周布正之助は小銃局の設置に述べる
2月6日 3月24日 長井雅樂切腹した
3月7日 4月24日 徳川家茂上洛。将軍の上洛は徳川家光以来229年ぶり。
4月 高杉晋作上海へ
4月18日 6月8日 井上、山尾、野村の3名、藩主より洋行の内命
4月29日 6月15日五代友厚と高杉晋作上海へ渡航
4月30日 6月6日徳川家茂、孝明天皇に5月10日 をもっての攘夷実行を約束させられる。
5月10日6月25日 長州藩が馬関で外国船砲撃、幕府の攘夷実行期限であった。
5月12日6月27日 長州ファイブ英国行横浜より出発
6月1日7月15日 米国、下関に報復攻撃
6月5日7月20日 フランス、下関に報復攻撃。上陸し一部砲台を破壊。
6月6日7月21日 高杉は奇兵隊結成(藩命?)8月11日 奇兵隊総督に任命される。
7月2日8月15日薩英戦争
7月3日 8月16日 教法寺事件 晋作奇兵隊総督更迭
8月13日 9月25日 会薩同盟成立
8月17日 9月29日 天誅組の変。公卿中山忠光を主将とした尊皇攘夷派浪士がとして大和国で決起するが
8月18日9月30日 8.18政変、七卿落ち。京都から攘夷派が一掃される。
10月5日11月15日 薩英講和
10月12日11月22日 生野の変。平野国臣等尊攘派浪士が但馬国生野で挙兵するも数日で鎮圧される
1861
文久4 12月24日2月1日 長州は薩摩藩使用・長崎丸砲撃
1月13日2月20日 一橋慶喜・雄藩諸侯(松平慶永、山内豊信、伊達宗城、松平容保、島津久光)ら朝議参預に任じられる(参預会議)
元治元年2月20日3月27日 元治に改元
2月 神戸海軍操練所 竣工
5月19日4月14日 参預会議瓦解
3月19日4月24日 西郷隆盛、薩摩藩の軍賦役(軍司令官)に任命される
3月27日 5月2日 天狗党の乱。水戸藩執政武田耕雲斎を中心とし、横浜即時鎖港を求め挙兵。12月17日(1865年1月14日)投降
6月 五代友厚による上申書
6月5日7月8日 池田屋事件
6月10日7月13日 井上と伊藤が英国より帰国
7月11日8月12日 佐久間象山暗殺される
7月18日8月20日 禁門の変
7月23日8月24日 第1次長州征討
8月5日9月5日 馬関戦争。英仏蘭米連合軍、下関を攻撃。長州藩敗北。
8月18日9月18日 井上は高杉に従い講和条約締結
9月25日10月25日 井上聞多武備恭順を説く、暴徒に襲われ重傷を負う
9月26日10月26日 周布正之助が自殺
10月12日11月11日 西郷征長軍参謀就任
10月21日11月20日 諸隊の解散を命令
10月23日11月22日 高杉晋作は俗論派の台頭に身の危険を感じて萩を脱出
10月29日11月28日 高杉は白石正一郎宅で九州諸藩の浪士と会談
11月10日12月8日 高杉は九州で同氏を得る目標に失敗、野村望東尼の下で潜伏
11月11日12月9日 俗論派は幕府へののため正義派三家老の福原元|、益田親施、国司親相を切腹させた。
11月15日12月13日 諸隊は五卿を同行して長府藩へ向かう
11月16日12月14日 征長軍総督尾張藩主徳川慶勝が広島に着陣する。
11月17日12月15日 功山寺を五卿の滞在所とする。尚義隊・忠勇隊や残余の諸隊が集合
11月18日12月16日 征長軍参謀西郷隆盛の妥協案に基づき、長州藩、戦わずして恭順
11月20日12月18日 九州の五藩に、長州より五卿を受け取り、預かるよう命令を下す。
11月25日12月23日 九州の五藩に、長州より五卿を受け取り、預かるよう命令を下す。 高杉は三家老切腹を知る。帰還して俗論派打倒を決意する。
元治212月8日1月5日 赤禰武人が萩より長府へ帰還。諸隊の恭順を提案。一部の諸隊は受け入れた模様。
12月12日1月9日 五卿は衆議した後、九州行きに同意した。
12月13日1月10日 高杉の挙兵計画に諸隊幹部は反対した。
1865 12月16日1月12日 高杉は功山寺にて挙兵。集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊と、義侠心から参加した侠客のわずか84人
1月13日2月20日 下関新地会所を襲撃、食料金銭は得られず。豪商らのから2千両借、周辺住民が120人志願。
1月16日2月23日 渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、山田亦介、大和国之助、前田孫右衛門、 松島剛蔵、毛利登人の正義派高官7名を切腹もしくは斬首した。 (甲子殉難十一烈士)
1月23日3月1日 長州海軍を説得して3隻を手に入れる。
1月24日3月2日 征長軍に解兵令、高杉は吉富藤兵衛に井上聞多の奪還と献金を依頼
1月2日 1 月28日 長州藩伊崎会所襲撃
1月6日2月1日 絵堂の戦い、諸隊の自然解散が眼前に迫り危機感を抱いた奇兵隊山縣有朋、南園隊総督佐々木男也、八幡隊総督赤川敬三ら強硬派の200人が、総大将格である高杉に伝える猶予のないほど切迫した状況の中、半ば衝動的に始めた可能性がある。
1月9日2月4日 井上聞多奪還、吉富200人を連れて御楯隊に参加した。
1月10日2月5日 太田にて藩政府軍を撃退した。
1月11日2月6日 太田にて再度撃退。高杉と伊藤は諸隊が立ち上がり勝利したのを 喜ぶ。馬関の力士隊・遊撃隊を伊佐へ進め合流する決定をした。
1月14日2月9日 呑水峠(のみずたお)で大規模な戦闘となるも、諸隊は藩政府軍 の撃退に成功する。 同日、高杉らが合流し諸隊の士気は上がる。 三條実美以下五卿が馬関より渡海した。
1月16日2月11日 高杉等は遊撃隊を率いて街道沿いに進み、山縣は奇兵隊・御楯隊を 率いて絵堂方面より進んだ。粟屋の前軍が布陣する赤村を挟撃しこれを大いに破り、秋吉台周辺より敵を撃退した。
1月18日 2月13日 山口を拠点とした御楯隊(鴻城軍)は、萩へ続く要所である佐々 並の藩政府軍を襲撃. 俗論派が鎮撫の名のもとに藩主敬親自身を出 馬 させることを危惧していた。 高杉は、非常時に議論に明け暮れる のは大馬鹿者であると言い、藩主父子が出馬するなら周囲に従う兵を全て打倒し藩主父子を諸隊陣営に迎え入れればよいと答えた。 馬関・山口の住民は、藩に反抗した諸隊を積極的に支援した。諸隊 には多くの人士が入隊を希望して殺到し、それとは別に千人以上の 人夫が諸隊の為に物資の運搬などを無償で行い、地主や豪商は兵糧 や多額の金銭を積極的に寄附した。萩を除く防長すべてを正義派で ある諸隊が掌握するようになる。
1月30日2月25日 奇兵隊は篠目口より榎木谷へ、遊撃隊は福江口より西市へ進撃を開 始した。この事態に敬親父子は主だった俗論派の重臣を革職した。
2月5日3月2日 長州藩政府は萩城内の戒厳を解いた。
2月9日3月6日 藩主敬親、重臣と一堂に会して会議を行った。 毛利元周は諸隊追討 を速やかに取り消し、諸隊の建白書を受け入れ、国内の統一を図るべきことを提案した。敬親父子はこれを了承した。
2月14日3月11日 奇兵隊・八幡隊は松本より東光寺へ、南園隊・御楯隊は峠坂より大谷 へ(うち一隊は明木を横切り川上へ)、遊撃隊は深川より玉江へ進軍し、萩城周辺を制圧した。俗論派の幹部らは逃亡した。 諸隊は 萩城へ入城する。高杉らは野山獄に囚われた正義派を釈放した。逃亡した俗論派の首魁である椋梨藤太、中川宇右衛門らは石州で捉 えられた。
2月22日3月19日 敬親父子は維新の政治を敷くことを誓った。
2月28日3月15日 敬親父子は山口に帰る
3月12日4月7日 神戸海軍操練所が廃止される
3月17日4月12日 敬親は諸隊の総督と長州三支藩の家老を召し、武備恭順の対幕方針を確定した。長州藩は第二次長州征討へ備えることとなる。
1865 慶応元年4月7日5月1日 慶応に改元
4月17日5月11日 薩摩留学生羽島出港 ホンコン着
5月16日6月9日 龍馬が薩長同盟実現のため鹿児島を出立
5月21日6月14日 中岡慎太郎が下関へ至り西郷吉之助が京都に直行した旨を伝えられる
10月4日11月21日 龍馬が広沢兵助・松原音三・小田村素太郎らと面談し薩摩への糧米提供の確約を得る
10月5日11月22日 朝廷 条約に対する勅許を出す。兵庫開港は認めず
慶応2年
遠藤帰国
1866 1月21日3月7日 薩長同盟
1月22日3月8日 龍馬は寺田屋で負傷
2月 五代友厚帰国
2月5日3月21日 龍馬が薩長同盟の裏書をする
6月7日7月18日 第2次長州征討、 四境の役・大島口の戦い
6月17日7月28日 龍馬ユニオン号にて小倉渡海に参戦
7月20日8月29日 将軍家茂死去
8月21日9月29日 孝明天皇、長州征討停戦命ず
10月10日11月16日 勝海舟と広沢真臣が幕長休戦協定を結ぶ
11月 広沢真臣、五代友厚、坂本龍馬「商社示談箇条書き」を結ぶ
慶応3年12月5日1月10日 徳川慶喜、十五代将軍に就任
12月25日1月30日 孝明天皇、崩御
1867
4/1-11/3 パリ万博
3月18日4月22日 龍馬、御手洗で薩長芸土4藩の予備会談を行う
3月21日4月25日 龍馬、新谷道太郎に会い、御手洗から下関にむけ出帆。
3月22日4月26日 龍馬、下関到着、三吉愼蔵に「大日本史」借用を願い出る
4月14日5月31日 高杉晋作死去
4月23日6月9日 いろは丸と紀州艦明光丸が讃岐箱ノ崎沖で衝突し、いろは丸は沈没
5月23日 7月8日 徳川慶喜の勝利、四侯会議失敗
5月25日7月10日 薩摩武力討幕を指向
6月10日7月11日 龍馬の船中八策
6月 後藤象二郎は容堂に大政奉還を提言
6月19日7月20日 島津久光は長州の品川や山県と引見
6月22日7月23日 薩土盟約 薩摩・小松、西郷、大久保と土佐・後藤、寺村、真鍋、福岡、 浪人・龍馬、中岡が陪席、 大政奉還を薩摩が了解、これにより西郷が挙兵のために長州派遣を中止。
6月28日7月29日 芸州・辻に同意を得る
8月14日9月11日 長州へ大政奉還建白は武力討幕への大義名分と説明
9月8日10月5日 薩長芸三藩盟約による共同出兵計画
9月9日10月6日 薩土盟約は解消
9月28日1 0月25日 島津久光が討幕否定の通達
10月3日10月29日 土佐による建白書提出
10月6日11月1日 芸州による大政奉還の建白
10月8日11月3日 三藩の討幕再確認
10月14日11月9日 大政奉還が実行 、討幕の目論見が白紙に
10月15日11月10日 林謙三・安保清康と面談し、大政奉還後の見通しを龍馬語る
11月7日12月2日 御手洗で薩長芸土4藩の軍事同盟密約と新政府綱領8策を結ぶ。 長州・大村益次郎・山県有朋、薩摩・大久保・大山格之助、芸州・池田徳太郎・船越洋之助、土佐・龍馬・後藤象二郎
11月8日12月3日 龍馬御手洗を立つ
11月15日12月10日 龍馬暗殺
11月23日12月18日 島津忠義、3000の兵を引き連れ入京
11月26日12月21日 御手洗条約 長州軍を芸州藩が上方に先導する約定
1868 12月9日1月3日 王政復古 薩摩と土佐の対立を芸州辻が討幕にまとめる
12月23日1月17日 江戸薩摩藩邸焼き討ちが決行される
慶応4年1月3日1 月27日 鳥羽伏見の戦い
1月6日1月30日 慶喜大阪城脱出
1月20日2月13日 青松葉事件 尾張藩佐幕派弾圧
3月14日4月6日 五箇条の御誓文
4月11日 5月3日 江戸城無血開城
5月3日6月22日 奥羽列藩同盟
5月15日7月4日 上野戦争
8月16日10月1日 河井継之助死亡
8月27日 10月12日
1868 明治元年9月8日10月23日 明治に改元
1868 11月19日 1月1日 野村と山尾が英国より帰国
8月27日 10月12日 明治天皇即位
9月22日 11月6日 合津藩降伏
1869 明治2年 1月27日 蝦夷共和国成立
2月15日 横井小南暗殺
3月2日 薩長土肥四藩が版籍奉還の上奏文を提出
6月27日 榎本武揚、新政府軍に降伏。箱館戦争終結
12月7日 大村益次郎暗殺
1870 明治3 3月12日 木戸孝允により奇兵隊脱隊騒動が鎮圧される
5月27日 小御所会議
1871 明治4 2月27日 広沢真臣暗殺
4月2日 薩長土から兵8000を御親兵とする
8月29日 知藩事に対し廃藩置県の詔書下る
12月23日 岩倉使節団横浜を出発
1872 明治5
9月5日 学制発布される
12月9日 太陽暦と定時法の採用が出される
12月28日 徴兵令
1873 明治6
1月1日 明治6年1/1になる
1877 9月24日 西郷隆盛 自決