速魚の船中発策ブログ まとめ



奇兵隊のつよさ

白石正一郎

白石正一郎宅を訪ねて

功山寺挙兵

功山寺を訪ねる

野村望東尼

林勇蔵と吉富簡一




































































































































































































































































































































































































奇兵隊のつよさ

白石正一郎

白石正一郎宅を訪ねて

功山寺挙兵

功山寺を訪ねる

野村望東尼




















































































高杉晋作まとめ





 高杉晋作 1839-1867





  奇兵隊の強さ
 



 長州は攘夷の行動を起こし、下関戦争で西洋の圧倒的力を実感させられました。その戦いでは士族による軍と装備が役に立たないものだと気が付きます。

 それゆえに、奇兵隊は、
僧月性が身分を問わず、志のある者による兵制をつくるべき、
松陰の「西洋歩兵論」に西洋の歩兵制をとるべき、その歩兵は主として足軽以下農兵をあてるべき、
 という影響を受けて、高杉晋作が創設したものです。藩の正規兵となります。

 第2次長州征伐・四境戦争では下記のように4500名の奇兵隊を主力とする長州軍で10万に及ぶ幕府軍を打ち破りました。大勝利です。
1.大島口 長州藩:500 vs 幕府軍:2,000
2.小瀬川口 長州藩:2,000 vs 幕府軍:50,000
3.小倉口 長州藩:1,000 vs 幕府軍:20,000
4.石州口 長州藩:1,000 vs 幕府軍:30,000



  歴史群像より転載


 圧倒的な勝利は、高杉晋作から依頼を受けた大村益次郎が西洋兵学を取り入れ、奇兵隊を強いものに編成育成したからです。それは今までの個人的な武勇を振るう武士の戦いから、個々の能力を発揮し指揮官命令で集団の一員として戦闘させたことによります。 また散兵戦術を採用して兵を自由にして攻撃させた。 幕府兵による報告では1か所から2発以上射撃することなく移動して攻撃してきたと言う、この戦術は少数で多数に対する射撃の効果をあげる戦術であるが、士気が高いことを必要とする。武器も先進のライフル銃・ミニエ−銃を使用した。その使用により射程距離が長く敵の届かないところから命中率も高い射撃ができた。

 奇兵隊は郷土防衛の意気に燃えた幕府軍よりは実戦経験の豊富な人々の志願による兵である。有志のものにより構成された士気の高さが戦術に効果をあげたというべきでしょう。
 しかし倒幕が成功して、明治になり財政上の理由で奇兵隊をリストラする時がくる。その政策で兵士のこれまでの貢献や参戦経験を考慮しないで、功労金も支給せず、藩の地位を優先して隊に残すことをしてしまう。不平隊員による反乱が起きた。それで、木戸孝允が脱隊員を鎮圧する事態となった。前原一誠も萩の乱で処刑される。玉木文之進は自ら切腹した。

 奇兵隊は幕府軍のように街を放火したり略奪するようなことはありませんでした。むしろ炊き出しをしたほどです。住民を味方につけました。 


 年表

1840  アヘン戦争
1853  6月  ペリ−来航
1854  3月  日米和親条約
1857  11月  松下村塾開く
1858   9月  松陰 西洋歩兵論を著す
1859  11月  松陰死刑  
1863  5月 下関戦争 砲台を4国艦隊により占拠される
    6月  高杉晋作による奇兵隊を建白
    7月  薩英戦争
    8月18日の政変で朝廷から長州追放
    8月  奇兵隊士が藩士・武士のみからなる撰鋒隊と衝突して
       高杉は総督を更迭される。    
1864 7月  禁門の変
   8月  第1次長州征伐
   8月 4国艦隊下関報復砲撃
1865 2月 功山寺挙兵で高杉晋作ク−デタ−
   7月  ミニエ−銃4300丁、ゲベ−ル銃3000丁購入  
1866 3月  薩長同盟
   4月  第2奇兵隊 倉敷浅尾騒動事件
   6月  第2次長州征伐・四境戦争
1867  10月  大政奉還
1868  1月  鳥羽伏見の戦い
    8月  会津戦争 9/22 降伏
    9月  明治に改元
1869  1月  版籍奉還
    11月 長州諸隊の改編 5000名より2250名へ
    12月 脱隊騒動 遊撃隊他2000人が脱走
    11月 大村益次郎暗殺で死亡
1870  2月  木戸孝允が脱隊員を鎮圧 133名を処刑
1873  1月  徴兵令が施行
1876  10月  萩の乱で前原一誠らは処刑される


 
  諸隊 百にも及ぶものがつくられたという


御楯隊:高杉晋作が率いた尊王攘夷の結社で、英国公使館焼き討ちを行う。禁門の変の残存部隊で編成。後に整武隊に吸収合併。

忠勇隊: 禁門の変の主力として戦闘するも壊滅。

整武隊: 御楯隊、鴻城隊などからなる。

狙撃隊: 猟師で結成。

第二奇兵隊: 大島郡一帯の民衆で編成、後に健武隊と合併。

健武隊: 膺懲隊、第二奇兵隊などからなる。

遊撃隊: 総督 木島又兵衛 禁門の変の先鋒

忠憤隊: 大楽源太郎の西山塾の塾生によって編成

エレキ隊: 藩内の豪農によって編成。領内の自警団的組織。

パトロン隊: 火薬工場勤務の女子、一向宗徒の女子で編成。

八幡隊: 8月18日の政変後 久坂玄瑞により創設

鋭武隊: 富永有隣が率いる

金剛隊: 阿武郡小畑村の僧侶、山伏で編成

力士隊: 伊藤博文が率いた相撲取りグル−プ


     2017-2-12





     白石正一郎  1812-1880

 
 白石正一郎は下関の商家・小倉屋の生まれである。北前船が盛況でその航路の要地であったこと、村田清風の政策による海運助成策により長州の豪商となる。国学者の鈴木重胤(1812-63)の門人であった。そのことから次第に幕末志士を援助するようになる。はじめて正一郎と会った西郷古兵衛(隆盛)は、彼の人柄を「風儀雅品」「叮嚀(ていねい)の者」といっており、平野国臣も筑前藩主への建白書のなかで、彼を「正直なる者」と評している.
彼は、高杉晋作を支援して自宅は奇兵隊発祥の地になる。弟・廉作と伴に自ら入隊して莫大な資金援助をした。奇兵隊には自前の資金は無かった。晋作の最後の面倒を白石家で見ている。
子孫の方が日記を現代訳にされてウエブに公開されている。それによると、平野国臣をかくまったり、薩摩とは、後にご用達になることから、さまざまな面倒を見ていることが知られる。坂本龍馬も彼にやっかいになるのですが、薩長同盟でのさきがけとして、長州の米を薩摩に売りミニエ−小銃を長州が手にする周旋を龍馬がした。これを読むと薩摩は以前より米の買い付けをしていたのが分かる。白石正一郎の薩長への日々の濃密な接触が無ければ薩長同盟も無かったのではないかと思わされる。

  白石正一郎日記・現代語訳
  http://www.shiraishilo.com/entry14.html

 彼の家は幕末志士のアジトであり出入りしたものは下記のように多数にのぼる。

  薩摩藩
  島津泉洲(久光)大島三右衛門(西郷清盛)大久保一蔵(利通)町田助十郎
  田中新兵衛 奈良原喜八郎 林休右衛門 村田新八 吉井仲介(友実)
  大脇祐九郎 柴山受次郎 橋口壮介 道嶋五郎兵衛 三雲東一郎
  与倉猶二郎
  益山東石 町田真五郎 波江野休右衛門 森山新蔵 樺山三円
  井上右近 高橋新八 税処喜三右衛門 嶋津豊後大夫 三原藤五郎
  有村俊斎(海江田信義)浜田勇右衛門 石見半兵衛 米良喜之介 桂民之進
  有馬新七 堀仲左衛門(伊地知壮之丞)井上弥八郎 
  高崎善兵衛(五六の父)
  利強兵衛 高崎猪太郎(五六)板鼻俊蔵 川治正之進 重野厚之丞(安繹)
  種子島武人
  田中直之進(謙助)加藤半兵衛 洋中半兵衛 竹内五百都 原田彦右衛門 
  高崎左太郎(正風)

 長州藩
 高杉晋作(谷潜蔵・春風)桂小五郎(木戸孝允)久坂玄瑞 伊藤博文
  山県狂介(有朋)
  品川弥二郎 野村靖(和作)鳥尾小弥太 山田顕義 三浦梧楼
  楫取素彦(小田村文助)土屋矢之介 中村文右衛門 竹内正兵衛 滝弥太郎
  川上弥一 松島剛三  前原一誠 久芳内記 周布政之助
  来原良蔵 楢崎八十槌 宮城彦輔 前田孫右衛門 国司信濃
  飯田八郎左衛門 入江九一 三好軍太郎(重臣)滋野謙太(清彦
  )益田右衛門介
  山県弥八郎 時山直八 杉山松助 福田佐平 福原三蔵
  片野十郎 林半七(友幸) 井上聞多(薫) 宍戸小弥太(幾)厚東次郎助
  湯浅祥之介 貴島又兵衛 波多野金吾(広沢真臣) 野村宇中 乃美織衛
  松浦亀太郎(松田和介)

   土佐藩
  吉村虎太郎 谷守部(干城) 坂本竜馬 土方楠左衛門(久元)石川誠之助(中岡慎太郎)
  田所壮介 桶口真吉 北山登 大野武八郎 安藤勇之助 田中謙助(光顕)
  細川左馬之介

 筑前藩
  平野次郎(国臣) 河野若狭之進 吉永源八郎 熊谷丈平 入江勝四郎
  北条右門(村山斉介)徳田隼人 工藤左門(藤井良節)沢原与左衛門
  清水正平
  大田左内 中村円太 藤四郎 野村望東尼
 久留米藩
  真木和泉  淵上郁太(郎)(牟田大助)坂井伝二郎 大鳥井利兵衛
  荒巻洋三郎
  池尻茂四郎 真木外記 岡田三津三 原道太 川崎三郎(角照三郎)
  松浦八郎
 肥後藩
  堤松右衛門 上松巳八 轟武平(武兵衛) 川上彦斎
 秋月藩
  戸原右橘 神木小介  間嘉太夫
 岡藩
  小河弥右衛門 広瀬友之丞 後藤喜右衛門
 大村藩
  渡辺清 渡辺昇 
 安芸藩
  穂上輝門 渡辺三哲 頼東三郎 佐藤勘三郎
 対馬藩
  多田壮蔵

 京都
  僧月照 結城筑後守 井上信濃 勝山弥太郎 田中河内介
  (以上、計一五一名)

  慶応元年・1865年末頃から援助のし過ぎで資金繰りが悪化したといわれる。薩摩にも長州にも絶大な貢献したのだけれども、明治になっても政商・財閥になって巨万の富を得たわけではなく、明治8年には破産した。顕職につくこともなく、赤間神宮の宮司となり69歳で死去した。


   2018-2-14





     下関 白石正一郎宅跡を訪ねる

 JR下関近くの中国電力のビルの一角に白石正一郎の宅跡がある。そこには奇兵隊発祥の地の石碑と白石の石碑があるのみです。

 最近の大河ドラマ「西郷どん」の放映されたなかで西郷弟の信吾が白石から三〇両の資金を得ることが描かれていました。信吾、後の西郷従道はそれを遊興に使ってしまうのですが、白石は求められれば志士に支援をしていた。
維新後に政商にもならず、自宅も残ることはなかった。



  中国電力敷地内



白石正一郎の石碑



奇兵隊発祥の地の石碑


 正一郎は弟とともに奇兵隊に加入する。

 維新後には赤間神宮の宮司になるのだが、訪れてみても彼記を記載したものや顕彰したものはみつけられなかった。



赤間神宮

 
 2018-7-5





  高杉晋作の功山寺挙兵
  



功山寺

 維新へのタ−ニングポイントは高杉晋作の功山寺挙兵だと思います。
長州藩の藩論は尊王攘夷で正義派が支配していた。下関で外国船に砲撃を加える。天皇の意に沿う攘夷の決行であった。外国船が反撃をしてきたが、これまでの武士では戦闘で役立たないと判明する。それにより、藩は今後の攻撃に備えるために、身分の垣根を越えて人材と兵員を募集せざる負えなくなる。奇兵隊や諸隊ができることになった。外国の脅威に直面したので、長州の庶民にまで郷土防衛意識が高まり、多くの献金や5000人にも及ぶ諸隊員が集まる。

 京都では、長州の尊攘勢力が8.18の政変により駆逐され、その奪回に禁門の変が起こり敗れて、長州は朝敵になる。第1次長州征討の状況になってビビった藩主親子は、藩論を俗論派にゆだねることになった。
 危険を察知した高杉晋作は九州へ逃れた。尾張の征討総督の徳川慶勝と参謀の西郷隆盛は長州と幕府との戦争を嫌い、穏便な配慮による開戦回避工作を進めた。

 野村望東尼の元に潜伏していた高杉は、正義派家老が切腹させられたことを知り俗論派打倒を決意して馬関に帰還する。高杉は功山寺にて挙兵。集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊と、義侠心から参加した侠客のわずか84人です。 諸隊の動きは、藩に解散を命ぜられていたので恭順の姿勢が多数であった。
 晋作は初戦に勝利すると、商人や庄屋層の強い支持を受ける。消極的であった山県有朋の奇兵隊や他の諸隊も晋作側に参加する。最終的には俗論派藩兵を破り、山口に藩主を迎えて武備恭順の政策を藩に取らせることになる。

  昭和14年(1939)に97歳で没した松下村塾出身の渡辺蒿蔵・<ins><a href="http://hayame.sblo.jp/article/168843234.html" target="_blank">天野清三郎</a></ins>は。「久坂と高杉との差は、久坂には誰も付いてゆきたいが、高杉にはどうもならぬと皆言う程に、高杉の乱暴なり易きには人望少なく、久坂の方人望多しと語り残している。
 それでも禁門の変で人材を失い、俗論派を打ち破るには高杉の人物とその個性があってこそです。功山寺挙兵の時の絶望的な状況での高杉の決断がなければ、明治はもっと遅れて、奇兵隊的なものでは無くて薩摩的な侍文化を引きずったものになっていたでしょう。

 晋作は250石の上級武士ゆえにその生い立ちを引きずるものがありました。功山寺挙兵の諸隊幹部への演説で「 元が土百姓である奇兵隊総督・赤禰武人に騙されていると言い、さらに自分を毛利三百年来の家臣であり、赤禰ごときと比べられては困ると叫んだ。そして「願わくば従来の高誼に対して、予に一匹の馬を貸してくれ。予はそれに騎して萩の君公のもとへ行き直諌する。一里を行けば一里の忠を尽くし、二里を行けば二里の義を尽くす」と絶叫した。」下級武士である山縣や農工商身分の諸隊幹部たちにとって、毛利家家臣を強調する演説では士気を鼓舞出来ず、決起の賛同者を得ることは出来なかった。それで、わずかな80名余の賛同者と決起することになった。

 商品経済の発展と伴に成長して村々を支配してきた庄屋・豪農クラスの今回の挙兵への大きな支持を得て、彼らの資金と人により高杉は俗論派に勝利することができた。封建的な俗論派の政策は庄屋らには耐えられないものであった。 高杉が負けたなら、自分たちで一揆をおこして戦う、という程の庄屋が幕末には出現していました。
 勝利した後も高杉は生い立ちに捕らわれていて、諸隊を掌握できずに、活躍した諸隊を藩士で構成される干城隊が諸隊を指導・統制する体制にしたいと思っていた。 最後は諦めて統理の地位を辞し無役となり、伊藤と英国留学を考えるまでになる。 長州は身分ではなく能力主義を採用して、大村の指導の下で諸隊を中心に軍備を整え、第2次長州征討を勝利する。勝てなかった幕府はその後に討幕されて明治の代に進んでいく。

 高杉の考えていた奇兵隊ではなく、それを支えた庶民的な奇兵隊が明治を切り開いていく。長州のその軍政が明治の徴兵制への道になる。西郷の強力な押しが無ければ徴兵制が成立しなかったかもしれないけれど、西郷も高杉もそれの意味するところは分かっていなかったのかもしれない。両人ともそれぞれの時点で、歴史の転換には彼らの力を必要とした。
 西欧列強に対してサムライのままの体制では伍していくのは難しかったことでしょう。サムライが築いた維新ですが、それには武士の終焉を必要とした。


関連年表

文久3年・1863

 5/10  長州藩が馬関で外国船砲撃、幕府の攘夷実行期限であった。
 6/6   高杉は奇兵隊結成(藩命?)
 8/16  藩の正規兵である撰鋒隊が長州藩諸隊の奇兵隊と衝突し撰鋒隊士 が斬殺された事件により晋作は奇兵隊総督を解任される。
 8/18  8・18の政変

元治元年・1864

 7/13 井上聞多と伊藤博文 英国から帰国
 7/19  禁門の変
 7/23  長州追討の勅命下る。
 8/5   四国艦隊下関砲撃
 8/14  井上は高杉に従い講和条約締結
 9/25  井上聞多武備恭順を説く、暴徒に襲われ重傷を負う
 9/26  周布正之助が自殺
 10/21  諸隊の解散を命令
 10/23  高杉晋作は俗論派の台頭に身の危険を感じて萩を脱出
 10/29  高杉は白石正一郎宅で九州諸藩の浪士と会談
 11/10  高杉は九州で同氏を得る目標に失敗、野村望東尼の下で潜伏
 11/11  俗論派は幕府へののため正義派三家老の福原元|、益田親施、国司親相を切腹させた。
 11/15  諸隊は五卿を同行して長府藩へ向かう
 11/16  長軍総督尾張藩主徳川慶勝が広島に着陣する。
 11/17  功山寺を五卿の滞在所とする。尚義隊・忠勇隊や残余の諸隊が集合
 11/18  征長軍は幕府・朝廷へ詳報と開戦時期延期を伝えた。
 11/20  九州の五藩に、長州より五卿を受け取り、預かるよう命令を下す。
      高杉は三家老切腹を知る。帰還して俗論派打倒を決意する。
 11/25  高杉が筑前より馬関へ帰還。
 12/8   赤禰武人が萩より長府へ帰還。諸隊の恭順を提案。一部の諸隊は受け入れた模様。
 12/12  五卿は衆議した後、九州行きに同意した。
 12/13  高杉の挙兵計画に諸隊幹部は反対した。
 12/15  高杉は功山寺にて挙兵。集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊と、義侠心から参加した侠客のわずか84人



高杉晋作挙兵像(功山寺境内)
     

 12/16  下関新地会所を襲撃、食料金銭は得られず。豪商らのから2千両借、周辺住民が120人志願。
 12/19  渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、山田亦介、大和国之助、前田孫右衛門、 
      松島剛蔵、毛利登人の正義派高官7名を切腹もしくは斬首した。
         (甲子殉難十一烈士)
 12/26  長州海軍を説得して3隻を手に入れる。
 12/27  征長軍に解兵令、高杉は吉富藤兵衛に井上聞多の奪還と献金を依頼
         
 慶応元年・1865

 1/2  伊崎会所襲撃
 1/6  絵堂の戦い、諸隊の自然解散が眼前に迫り危機感を抱いた奇兵隊
     山縣有朋、南園隊総督佐々木男也、八幡隊総督赤川敬三ら強硬派
     の200人が、総大将格である高杉に伝える猶予のないほど切迫した
     状況の中、半ば衝動的に始めた可能性がある。
 1/9  井上聞多奪還、吉富200人を連れて御楯隊に参加した。
 1/10  太田にて藩政府軍を撃退した。
 1/11  太田にて再度撃退。高杉と伊藤は諸隊が立ち上がり勝利したのを  
      喜ぶ。馬関の力士隊・遊撃隊を伊佐へ進め合流する決定をした。
 1/14  呑水峠(のみずたお)で大規模な戦闘となるも、諸隊は藩政府軍   
      の撃退に成功する。 同日、高杉らが合流し諸隊の士気は上がる。 三條実美以下五卿が馬関より渡海した。

 1/16   高杉等は遊撃隊を率いて街道沿いに進み、山縣は奇兵隊・御楯隊を 率いて絵堂方面より進んだ。粟屋の前軍が布陣する赤村を挟撃しこ
     れを大いに破り、秋吉台周辺より敵を撃退した。

 1/18   山口を拠点とした御楯隊(鴻城軍)は、萩へ続く要所である佐々 並の藩政府軍を襲撃. 俗論派が鎮撫の名のもとに藩主敬親自身を出 馬
     させることを危惧していた。 高杉は、非常時に議論に明け暮れる のは大馬鹿者であると言い、藩主父子が出馬するなら周囲に従う兵
     を全て打倒し藩主父子を諸隊陣営に迎え入れればよいと答えた。 馬関・山口の住民は、藩に反抗した諸隊を積極的に支援した。
     諸隊 には多くの人士が入隊を希望して殺到し、それとは別に千人以上の 人夫が諸隊の為に物資の運搬などを無償で行い、地主や
     豪商は兵糧 や多額の金銭を積極的に寄附した。萩を除く防長すべてを正義派で ある諸隊が掌握するようになる。

 1/30   奇兵隊は篠目口より榎木谷へ、遊撃隊は福江口より西市へ進撃を開 始した。この事態に敬親父子は主だった俗論派の重臣を革職した。

 2/5  藩政府は萩城内の戒厳を解いた。

 2/9   藩主敬親、重臣と一堂に会して会議を行った。 毛利元周は諸隊追討 を速やかに取り消し、諸隊の建白書を受け入れ、国内の統一を図る
    べきことを提案した。敬親父子はこれを了承した。

 2/14   奇兵隊・八幡隊は松本より東光寺へ、南園隊・御楯隊は峠坂より大谷 へ(うち一隊は明木を横切り川上へ)、遊撃隊は深川より玉江へ進
     軍し、萩城周辺を制圧した。俗論派の幹部らは逃亡した。 諸隊は 萩城へ入城する。 高杉らは野山獄に囚われた正義派を釈放した。
      逃亡した俗論派の首魁である椋梨藤太、中川宇右衛門らは石州で捉 えられた。

 2/22   敬親父子は維新の政治を敷くことを誓った。
 2/28   敬親父子は山口に帰る
 3/17  敬親は諸隊の総督と長州三支藩の家老を召し、武備恭順の対幕方針
     を確定した。長州藩は第二次長州征討へ備えることとなる。

慶応2年・1866
  1/21  薩長同盟
  6/7   四境の役・大島口の戦い



 小倉口の戦い  高杉艦隊の動き




   2018-3-15




    功山寺を訪ねる

  下関の観光の目玉の一つは思いもよらぬ高杉晋作であった。 功山寺は長府の街にあり、下関からバスで訪れた。 長府は5万石の長州の支藩である。 訪れてみると町並みに風情があり小さくまとまった、皆にもお勧めできる良いところです。



 国宝 功山寺仏殿


 維新のタ−ニングポインントである高杉晋作の功山寺挙兵については、奇兵隊すら賛同されない中で、わずか80人で挙兵した地である。 詳しくは、ここですでに取り上げています。  
 功山寺は長府藩祖毛利秀元の菩提寺であり、毛利元就に追われた大内義長が自刃した地であり、坂本龍馬の護衛を勤めた三吉慎蔵の墓もある。 また、京都から落ちた五卿はここに滞在したことがある。



 総門



 境内にある晋作騎馬像



 長府藩士 三吉慎蔵の墓


  2018-7-30





    高杉晋作の終焉の地・下関を訪ねる



 高杉晋作 1839-1867

 ここでは、すでに功山寺挙兵のこと、また、その地を訪ねたことを述べています。




 功山寺にある高杉晋作像




下関駅より 高杉晋作関連地図

 JR下関駅から徒歩3分位で白石正一郎宅(中国電力ビル)に行ける。そこは奇兵隊結成の地でもある。残念ながら碑のみである。



 奇兵隊結成の地  白石正一郎宅跡

 そこから徒歩5分位で高杉晋作終焉の地へ向かう。これも小さな公園に碑があるのみである。



 高杉晋作の終焉の地

 今までほぼ駅より北に向かって歩いてきたのだが、続いて山陽本線に沿う形で厳島神社に出る。 ここにはかって小倉城内にあったが第2次長州征討での小倉口の戦いの戦利品として晋作が持ち帰り奉納した太鼓が鐘楼にある。



 下関 厳島神社の鐘楼



 萩藩新地会所跡碑 左に晋作療養地220mの案内板


 この神社の脇に萩藩新地御用所跡の木碑がある。すぐ横の細道を歩き山陽本線のガ−ドを抜けて数分で高杉晋作療養の地跡に行ける。ごく普通の民家の塀にその碑があるので、気が付くのに遅れるかもしれません。 ここで芸妓を見受けした「おうの」や野村望東尼に晋作は看病された。正室「雅子」も訪れたという。



 高杉晋作療養の地碑




 長州砲(80斤カノン砲)レプリカ、壇ノ浦砲台



 晋作の墓は東行庵(下関市吉田町1184)にあり長府の先になり、今回は訪れておりません。

 


  高杉晋作療養の墓

 「おうの」は死後に出家して東行庵で弔ったという。彼女の墓もここにある。





   野村望東尼



 1806-1867



 歌人であり高杉晋作らの志士を助けた人、 野村望東尼を訪ねて福岡にある平尾山荘と糸島市にある姫島に行く。

 彼女が便宜を図った志士には、月照・高杉晋作・加藤司書・平野国臣・月形洗蔵・中村円太・早川養敬らがいる。匿われた後に晋作が功山寺挙兵をなしとげ、停滞していた維新の動きは一挙に転換した。
 望東尼は晋作の手配により流刑から救出される。彼女は病にあった晋作を看病し、彼の最後を看取ることになった。

 有名な晋作の歌、 「おもしろき事もなき世におもしろく」と晋作が読むと、彼女が続けて「住むものは心なりけり」と詠んだ。 また、晋作を匿っているころの歌に 「雪ふかき 雪のうらなる 梅の花 埋もれながらも 香やはかくるる」 梅の花とは、当時、晋作は谷梅之助と名乗っていた。 薩長同盟がなり長州の三田尻で連合軍東上を見送る最後の歌、「冬籠 こらえてこらえて 一時に 花咲みてる 春はくるらし」



 野村望東尼像


 福岡市中央区にある平尾山荘を訪ねてみた。天神から西鉄に乗り、平尾駅で下車。すぐにわかるだろうと店の人や近くの住人に尋ねたが、さっぱり要領を得ず。地名にもマンションの名前にも平尾山荘と命名されていても、野村望東尼のことは、地元の人にも、意外と知られていないと思いました。
 坂道の多い丘陵地にあるので、隣の道に行くにも坂を下りて登らなければならない、大汗をかいてやっとたどり着く。 ここで高杉晋作・西郷隆盛・月形洗蔵の会談が持たれたという。(下関の対帆楼であるともいう)
 


平尾山荘


 山荘の敷地内に小詞があり、この祠の中に平野国臣、中村恒次郎の歌がおさめられている。



小詞の石碑 


 姫島は玄界灘にあり、糸島市に属する極めて小さい島です。1日4便の渡船がある。渡船乗り場から徒歩5−6分で案内板に導かれて望東尼牢獄跡へ行くことができます。

 実弟がかってこの島の役人を勤めたことがあり、島人より丁重な扱いを受けたという。
  「折々の あまがもてくる 花の枝に 重なる春の 日数こそ知れ」



ヨットより姫島を望む



牢獄跡




自筆の獄中図

 年譜
1806・文化3  400石・浦野重右衛門勝幸の3女「もと」として誕生
1818・文政元年  13歳、 林五左衛門家に行儀見習い
1822・文政5  17歳、 郡甚右ヱ門に嫁ぐも半年で離婚
1829・文政12  24歳、野村新三郎貞貫と再婚、3人の連れ子 
1832・天保3  大隈言動(和歌の師匠)の門下に入る
1845・弘化2  40歳、平尾山荘に隠棲
1859・安政6  54歳、 夫死亡、剃髪して受戒
1861・文久元年-2 大阪・京都に滞在、島津久光上洛や寺田屋事件を見聞
         その後に勤王の志士をかくまう、密会の場所を提供
1864・元治元年 高杉晋作が平尾山荘に匿われる 
1865・慶応元年 乙丑の獄により野村助作・前妻の孫と共に自宅謹慎になり、姫島に流刑
1866・慶応2  高杉晋作の手配により姫島より脱獄、白石正一郎宅に匿われる
1867・慶応3  晋作の看病をし彼の死をみとる。11月 62歳で死去


   2018-7-7





   林勇蔵 と 吉富簡一


 長州藩は、ペリ−来航以来、外圧に対処するため、その危機をアピールし、それを受けとめた村落支配者=豪農商層が、みずからの危機意識のもとで、その郷土防衛のために農兵隊を積極的に組織し、武装化した。一般農民もまたそれに応じて献金をし、農兵として参加する。

 わずか80人余で挙兵した高杉晋作が巧山寺挙兵に成功したのは長州の庄屋たちの支援があったからです。初めは、奇兵隊すら勝利の見込み無しと日和見をきめていました。
 高杉の“正義”派が、この諸隊や農兵隊を基盤にして、一般農民層の支持をえながら“俗論”派戦に対して勝利を勝ち取ることができた。 挙兵に先立って、吉敷郡矢原村の山口宰判大庄屋吉富藤兵衛のもとにひそかに使を派した高杉は、挙兵を打明け、その軍資金の提供を吉富簡一に求めた。
 林勇蔵や吉富が資金や兵を提供してくれたことにより、初期の困難を克服してク−デタ−を晋作は成功させる。



林勇蔵 1813-1899


 豪農吉富家に生まれて、庄屋林文左衛門の養子となる。天保12年(1841)上中郷庄屋、安政2年(1855)小郡宰判大庄屋となる。巧山寺挙兵のとき金銭的に支援して勤王大庄屋とよばれた。明治になり地元の治水工事や地租改正に活躍した。


 宰判とは長州藩で郡にあたるような広域の村々を代官が治める行政区域である。



  小郡宰判図




吉富簡一 1838-1914


 周防郡の庄屋に生まれ井上門多とは幼なじみである。林勇蔵とは親戚。奇兵隊に資金提供するほかに、諸隊・鴻城軍を組織し井上を総裁にすえる。維新後は山口県政の大立者として、農民運動や自由民権運動には抑えるような行動をとる。

 吉富は興味を惹かれる人物である。苦境の高杉晋作を助けて、弾圧で押しつぶされそうになっていた正義派を勝利に結びつけ藩論を変えさせた。これから薩長の討幕運動が始まり明治となる。 明治2−3年に諸隊の脱退騒動が起きる。長州藩は結果的には諸隊を用無しとして解散させる。切り捨てられた処遇に不満な兵士は反乱を起こす。吉富はその意をくむことなく木戸と鎮圧をする。明治6年の地租改定で現金で納税する制度に変更になった。この際に、吉富は米を相場より安く農民より買受けて、大阪に高く売り差額を手に入れ巨額の利益を得た。 前原一誠はこのような農民や兵士の状況を放置する新政府に対して乱を起こすことになった。

 小生は、庄屋と言えば、村の貧しい成績の良い青年を学資を出して学ばせ、まだ村の篤志家の良いイメ−ジを持つが、地主というと小作から巻き上げる悪い印象しか持たない。 その二つを持つのが吉富ではないかと思う。 幕末から敗戦まで続く歴史を象徴する人物のようで興味深い。吉富は幕末では幕藩体制の矛盾を背負わされた庄屋で、それゆえに支援し変革をさせ、明治となり、地主層と農民層の対立では彼が地主側に立ち、庄屋・地主の置かれた歴史的な位置に順応し生きた人物である。彼の心中には矛盾はないのでしょう。地主・庄屋の歴史的・経済的な位置が維新を起こし明治の治世をささえた。その使命を成り立たせた地主の状況が時代を経て変化したことにより、結果として先の敗戦に至り、農地改革で使命を終えたというべきか。


   2018-4-13