速魚の船中発策ブログ まとめ




乙丑の獄

野村望東尼

月形洗蔵と加藤司書

平野国臣

早川養敬

筑前勤皇党


 












   野村望東尼



 1806-1867



 歌人であり高杉晋作らの志士を助けた人、 野村望東尼を訪ねて福岡にある平尾山荘と糸島市にある姫島に行く。

 彼女が便宜を図った志士には、月照・高杉晋作・加藤司書・平野国臣・月形洗蔵・中村円太・早川養敬らがいる。匿われた後に晋作が功山寺挙兵をなしとげ、停滞していた維新の動きは一挙に転換した。
 望東尼は晋作の手配により流刑から救出される。彼女は病にあった晋作を看病し、彼の最後を看取ることになった。

 有名な晋作の歌、 「おもしろき事もなき世におもしろく」と晋作が読むと、彼女が続けて「住むものは心なりけり」と詠んだ。 また、晋作を匿っているころの歌に 「雪ふかき 雪のうらなる 梅の花 埋もれながらも 香やはかくるる」 梅の花とは、当時、晋作は谷梅之助と名乗っていた。 薩長同盟がなり長州の三田尻で連合軍東上を見送る最後の歌、「冬籠 こらえてこらえて 一時に 花咲みてる 春はくるらし」



 野村望東尼像

 福岡市中央区にある平尾山荘を訪ねてみた。天神から西鉄に乗り、平尾駅で下車。すぐにわかるだろうと店の人や近くの住人に尋ねたが、さっぱり要領を得ず。地名にもマンションの名前にも平尾山荘と命名されていても、野村望東尼のことは、地元の人にも、意外と知られていないと思いました。
 坂道の多い丘陵地にあるので、隣の道に行くにも坂を下りて登らなければならない、大汗をかいてやっとたどり着く。 ここで高杉晋作・西郷隆盛・月形洗蔵の会談が持たれたという。(下関の対帆楼であるともいう)
 


平尾山荘

 山荘の敷地内に小詞があり、この祠の中に平野国臣、中村恒次郎の歌がおさめられている。



小詞の石碑 

 姫島は玄界灘にあり、糸島市に属する極めて小さい島です。1日4便の渡船がある。渡船乗り場から徒歩5−6分で案内板に導かれて望東尼牢獄跡へ行くことができます。

 実弟がかってこの島の役人を勤めたことがあり、島人より丁重な扱いを受けたという。
  「折々の あまがもてくる 花の枝に 重なる春の 日数こそ知れ」



ヨットより姫島を望む



牢獄跡



自筆の獄中図

 年譜
1806・文化3  400石・浦野重右衛門勝幸の3女「もと」として誕生
1818・文政元年  13歳、 林五左衛門家に行儀見習い
1822・文政5  17歳、 郡甚右ヱ門に嫁ぐも半年で離婚
1829・文政12  24歳、野村新三郎貞貫と再婚、3人の連れ子 
1832・天保3  大隈言動(和歌の師匠)の門下に入る
1845・弘化2  40歳、平尾山荘に隠棲
1859・安政6  54歳、 夫死亡、剃髪して受戒
1861・文久元年-2 大阪・京都に滞在、島津久光上洛や寺田屋事件を見聞
         その後に勤王の志士をかくまう、密会の場所を提供
1864・元治元年 高杉晋作が平尾山荘に匿われる 
1865・慶応元年 乙丑の獄により野村助作・前妻の孫と共に自宅謹慎になり、姫島に流刑
1866・慶応2  高杉晋作の手配により姫島より脱獄、白石正一郎宅に匿われる
1867・慶応3  晋作の看病をし彼の死をみとる。11月 62歳で死去


   2018-7-7













 乙丑の獄(いっちゅうのごく)

 維新では薩長土肥ばかりが有名になり芸州藩や福岡藩の動きはあまり注目されておりません。

 黒田如水の福岡藩は外様大名であり52万国の雄藩である。幕末には島津重豪の13男黒田長溥(くろだ ながひろ)が藩主となる。実父の重豪に倣って近代化路線を推し進めた。
 幕末には尊王攘夷派の筑前勤皇党が主力を占めていて、彼らは第1次長州征討の回避工作に奔走した。その際に長州に居た五卿を説得し太宰府に移したことで尊皇攘夷の雄藩の一角と言われるようになった。

 黒田長溥が幕府にそのことを責められていた。幕府が第二次長州征討を決定した結果、福岡藩では先の勤王派の周旋は否定され、藩論が佐幕に傾く。長州の俗論派の台頭のようなものである。勤王派の多くが逮捕され家老・加藤司書をはじめ7名が切腹、月形洗蔵ら15名が斬首、野村望東尼ら15名が流刑となった乙丑の獄により筑前勤王党は壊滅した。
 この150名にも及ぶ大弾圧の結果戊辰戦争の際には兵を率いる人材が全くおらず、失態を重ねて廃藩置県を待たずに廃藩となる。遠島や謹慎の処分にしておけば良かったと言ってみても手遅れです。

切腹 以下7名


加藤司書 1830-65

2800石の中老、プチャ−チン警備に当たる。「外国艦隊の脅威を前に国内で戦っている時ではない、国防に専念すべし」という親書を提出し、征長軍解散を決めさせることに成功する。西郷吉之助や高杉晋作と密談を行い、薩長同盟の実現に向けて活動。

斉藤五六郎

建部武彦 1820-65
700石の中級武士、第一次長州征討に際して福岡藩の尊皇攘夷派は、国内戦争を回避するため、長州藩に謝罪恭順と薩長和解を求める周旋活動を行った。

衣非茂記
尾崎惣左衛門
万代十兵衛
森安平


斬首 以下15名
月形洗蔵 1828-65
第一次長州征討において征討中止に貢献した。五卿が太宰府天満宮に移る際、これを下関まで迎えに行き案内した。

梅津幸一
鷹取養巴
森勤作
江上栄之進
伊藤清兵衛
安田喜八郎
今中祐十郎
今中作兵衛
中村哲蔵
瀬口三兵衛
佐座謙三郎
大神壱岐
伊丹信一郎
筑紫衛


流刑 


野村望東尼 1806-67

勤皇歌人、勤皇の士を度々かくまったり、密会の場所を提供したりする。月照や高杉晋作らをかくまう。

野村助作
早川養敬

   2018-3-13
















月形洗蔵(1828-1865)と加藤司書(1830-1865)


 福岡に月形洗蔵と加藤司書ゆかりの地を訪ねた。

  月形洗蔵

 月形半平太の舞台でのセリフ「春雨じゃ 濡れていこう」の句は良く知られている。月形半平太は月形洗蔵と武市半平太をモデルにしたと云われる。 土佐の武市は有名ですが、それに比べて福岡の月形は知られていない。

  月形洗蔵は藩需・朱子学者深蔵(100石)の長男として生まれる。長じて馬廻役になるが辞職して尊王攘夷運動に奔走す。藩への建白書や批判で幽閉される。文久元年・1863に執政加藤図書の進言により帰宅するも蟄居を命ぜられる。元治元年・1864に罪を許された。

 第1次長州征討において、五卿を擁して戦おうとする長州を説得して藩外に出す難しい議論を成功させ、月形は征討中止に貢献した。五卿を長州功山寺へ迎えに行き太宰府まで案内をする。第二次長州征討では藩論が一転佐幕派になり、乙丑の獄で斬首された。

 司馬遼太郎が描いた龍馬以来、薩長同盟は龍馬の功績として流布している。明治のころには、その功は月形が知られていたという。 幕末の筑前福岡藩の藩主は薩摩島津から婿養子に入った黒田斉溥(ながひろ)である。2歳年上の島津斉彬とは兄弟みたいであったという。彼は斉彬の薩摩藩主相続の仲介の労をとった。長州征討中止の運動をしていた福岡藩としては薩長の同盟画策は自然な動きであった。 薩長和解の話は筑前が元である。 坂本龍馬は月形の唱える同盟に賛同した。 

 西郷隆盛に「志気英果なる、筑前においては無双といふべし」と言われたのだが。



 少林寺



 月形洗蔵の墓  少林寺門を入りすぐ左


 




加藤司書 1830-65


 加藤司書は、先祖が黒田官兵衛の荒木村重に幽閉されている時の有岡城牢番で、救出の世話をした功で代々中老の職に就く。2800石の上級藩士。 彼は選ばれて長崎でのプチャ−チン警備に当たる。「外国艦隊の脅威を前に国内で戦っている時ではない、国防に専念すべし」という親書を提出し、征長軍解散を決めさせることに成功する。その功で家老になり月形洗蔵と共に筑前勤皇党の首領格。 西郷吉之助や高杉晋作と密談を行い、薩長同盟の実現に向けて活動。 穏便に攘夷を進めようとする加藤派と過激な行動をとる月形派に分かれて内紛を起こす。 乙丑の獄で切腹する。
 何を読んだか勘違いして司書のお墓を聖福寺にあると思い出かけた。規模のでかい由緒ある寺なのかお墓の有る庫裏へは拝観謝絶で向かうことができなかった。実際は隣の節信院にある。



 聖福寺 総門  名島城から移築



 仏殿




 庫裏




 方丈  名護屋城から移築といわれてい



  節信院


 
 加藤司書墓


   2018-8-3








  平野国臣  



 1828-1864

 


 福岡市西公園にある像


 大河ドラマの「西郷どん」で僧月照と入水自殺するシ−ンがありました。西郷を助けた人をこのテレビドラマでは描かれていない。同行していた平野国臣によって救助・救命されたのです。
 
 平野国臣は足軽の2男として生まれる。小金丸の養子に行く。江戸で国学漢学を学ぶ。水戸の会沢正志斎に触れ尚古主義になる。それゆえに大刀をさげて古風な烏帽子・直垂姿で街を歩く、これを見て皆笑ったという、これには養家も迷惑し、彼は離縁された。

 宗像大島でお由羅騒動により薩摩から逃亡して保護されていた斉彬の側近・北条右門(村山下総)と親交を持つ。北条を通して西郷隆盛と知り合う。 安政の大獄から逃亡していた僧月照を彼は北条より依頼されて鹿児島まで同行する。 その際、月照・西郷入水事件で西郷を救命した。 安政の大獄がさらに吹き荒れたので備中に隠れる。 白石正一郎邸に移り、彼は薩摩・水戸浪人と井伊直弼暗殺計画を話し合う。 平野は藩主に大老が暗殺されれば混乱するのでその準備の建白書を提出した。 桜田門外の変が起こり、藩は驚愕して事前に知っていた国臣の捕縛を命じる。 村田新八・有馬新七らの手引きで彼は薩摩に逃げるが、久光に嫌われて薩摩から退去させられた。 その後に肥後や天草へ逃れる。 久光の上洛に合わせて有馬新七ら急進派と彼は京に上る。 寺田屋事件が起こり、有馬は死に国臣は捕縛される。福岡藩に引き渡され牢獄に入る。 長州が尊攘派公卿と朝廷を牛耳ると彼は釈放された。 8.18の政変で長州が京から退去させられる。 それで彼は生野の変を計画した。失敗して京で獄舎に入る。 禁門の変が起き京の大火災が獄舎に及び、未決であったが斬首された。




辞世の句 「憂国十年 東走西駆 成敗天有 魂魄歸地」



「大君に ささげあまりし 我いのち いまこそすつる 時は来にけり」


野村望東尼が彼の死をいたんで祠を作り石に歌を刻んだ。乙丑の獄で彼女は遠島になりウヤムヤニなったが後に見つかり平尾山荘に小詞がある。

 彼は志士であり文化人で歌人でもあった。時により良い歌を残している。

現在お騒がせのボクシングの会長・日大の総長みたいな夜郎自大なタイプになっていたのか、維新まで生存すれば、平野国臣はそのように見える誤解を受けたのかもしれません。しかし、禁門の変・蛤御門の変で死んだ久坂玄瑞のように平野国臣も惜しい人を亡くしたものです。その後に起こる乙丑の獄があるが、そこでは彼が生き残れたかは難しい問題ですね。

 今回は西公園にある像を見たのみであるが、福岡にはまだ平野神社や生誕地などのゆかりの地もあるようだ。機会があったら訪ねてみたい。


    2018-8-17







    早川養敬・勇




1832-1899

 先週の大河ドラマ「西郷どん」において薩長同盟の締結の編が放映されました。坂本龍馬、中岡慎太郎、伊藤博文が登場している。そこでは西郷の長州行のすつぽかしや、また、英国での薩長留学生の交流が描かれた。そこで、薩摩の留学生が長州の留学生を援助する。このことを日本へ持たされた手紙により、桂が知ることになる。そのような薩長の交流が同盟締結の大事な要因であったごとく取り扱われている。次の事の方がより重要で、それは亀山社中の仲介で、長州が幕府との第2次征討戦争に備えるために、薩摩名義によるミニエ−銃の購入のほうがより締結には大事なことであったと思われます。

 薩長同盟は龍馬と中岡によって成し遂げられたと伝わっているが、早川養敬が「発意」、月形洗蔵が「一藩の論」に高め、西郷、高杉会談につながり、後継者である坂本によって木戸孝允・坂本で局を結んだといわれる。

 早川は福岡藩・遠駕(宗像)の庄屋に生まれて、月形洗蔵の父君に共に学び、医師を志して江戸に学んだ。医師の早川家の養子となる。筑前勤皇党の運動に参加する。
 禁門の変後,七卿落ちに髄従していた土佐の中岡慎太郎と長州で知り合い、彼の仲介で元治元年12/4に西郷隆盛と中岡の会談をする。12/24彼と月形洗蔵のあっせんで西郷、高杉晋作の会談が実現した。第1次長州征討に際して長州藩に謝罪恭順と薩長和解を求める周旋活動を行った。五卿動座、征長中止、これらを成功に導いた。 
 再長征が決まると、福岡藩の先の周旋活動にあたった立場が危うくなり、藩論が変わり乙丑の獄が起こる。それで筑前尊皇党が根絶やしにされてしまう。彼は医師であったことから死ぬことから免れて幽閉された。 王政復古後に幽閉から許されて、三条実美の知遇により新政府に出仕して、元老院大書記官に進んだ。 筑前勤皇党の数少ない生き残りゆえに明治になって活躍した福岡藩の志士は極めて少ない。余り知られていないが、早川養敬は稀有なひとりの例となった。 苛酷な政敵への弾圧は歴史に後を残すことはできない事例です。遠島なり改名して謹慎させるような穏便な処置も必要でしょう。

   2018-9-2