速魚の船中発策ブログ まとめ





真珠湾の真実

マッカラム文書

ル−ズベルトとコミンテルン
戦略のすごさ

失敗の本質

日本は「勝利の方程式を
持っていた」

米国JBB355 作戦計画


レンドリ−スと日本

日本海軍大戦略

日本の軍隊の致命的欠陥

誰が第2次世界大戦を
起こしたのか

真珠和攻撃総隊長の回想
 1
 2  憲法制定と再軍備
 3  捷1号作戦
 4  米国首脳との会見
 5  ニイハウ島事件
 6  山本五十六凡将論

英国から見た太平洋戦争






太平洋戦争 まとめ













     真珠湾の真実  ロバ−ト・B・ステイネット著 

        ル−ズベルト欺瞞の日々

  


パ−ルハ−バ−の攻撃

                                 

 第2次大戦の開始は12月8日(現地時間は前日)の真珠湾攻撃をもって開戦として認識されていますが、これに先立ってマレ-作戦において、日本軍は宣戦布告無しで攻撃しています。

 日本のハワイ攻撃艦隊は厳重な無線封止が行われて真珠湾攻撃を成功させたと言われてきましたが、ステイネットのこの本を読むと、それは大きな誤謬・神話です、筒抜けでした。 択捉島の単冠湾に艦隊が集結したところから北太平洋を航行してハワイに接近するまで軍令部と艦隊の通信を傍受されていました。 それでハワイに向かう日本艦隊と洋上で鉢合わせして発見報告させないような航行制限措置をとっていたほどです。先に攻撃させるためにです。

 外交暗号や海軍の暗号も解読されていましたからアメリカに横綱相撲されたようなものです。 ル−ズベルトが日本を追い詰めて日本を先に手を出させて、欧州への参戦する口実を得た。また、日本が宣戦布告無しで卑怯な攻撃してきた、それで庶民は、憎き日本に義憤にかられ開戦をやむ負えないおえないと思わせたということでしょう。参戦しないという公約で大統領になった彼は見事に自分の意志の結果を出しました。これが真実のようです。


   傍受電報の著者による分類

 1. 南雲司令長官による発信          60通
 2. 東京から艦隊あての電報          24通
 3. 空母発信の電報                20通
 4. 航空艦隊司令官発信電報          12通
 5. 第1航空艦隊の空母以外の電報       8通
 6. ミッドウエ−破壊隊からの電報        4通
    小西第7駆逐隊 駆逐艦2隻の砲撃
 7. 航空戦隊司令官あての東京電報       1通
       以上合計   129通




オグ作成の第1艦航空隊航跡図  ハワイ北方に接近がわかる

                    
注)1941年当時ロバ−ト・オグは海軍区情報部で特別捜査官を務める、大圏航路図に再現された1941年11月30日より12月3日までの第1航空艦隊航路図。



  日本艦隊の無線封止神話はル−ズベルトが開戦のいきさつの隠蔽のために流した情報でしょう。 日本軍も真珠湾攻撃成功の理由としてそれにのっかったということです。

  日本軍も大戦後半になると無線情報の暗号解読ができなくても、定量的な分析等にて次の米軍の攻撃地点が予想できるようになりました。でもその情報を活用することができませんでした。 終戦近くになると、米軍は暗号すら使わずに平文や生の肉声会話が傍受できたといいます。


            2016-2-21




    マッカラム覚書  1940年10月作成





海軍情報将校マッカラム少佐

                               
 宮中に出入りを許されて、昭和天皇にダンスを教えたことがあるエピソ−ドの知日米海軍将校マッカラムが、日本を戦争に追い込むための覚書を提出しました。 その政策が実際に実行されたかは論議のあるところです。

 ル−ズベルトは参戦しないと公約して大統領になりました。しかし何としても90が%近くのひとが反対する中で英国支援のために参戦する決意でした。 マッカラムの云うとうりに日本は追い込まれて先に手をだしていく結果になりました。 リメンバ−パ−ルハ−バ−の掛け声と共に世論は一変して参戦を支持するようにうなりました。



 1.太平洋の英軍基地、特にシンガポールの使用について英国との協定締結。
 2.蘭領東インド(現在のインドネシア)内の基地施設の使用及び補給物資の取得に
関するオランダとの協定締結。
 3.蒋介石政権への、可能なあらゆる援助の提供。
 4.遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個戦隊を東洋、フィリピンまたはシンガポールヘ
  派遣すること。
 5.潜水戦隊二隊の東洋派遣。
 6.現在、ハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持すること。
 7.日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否するよう
主張すること。
 8.英帝国が押しつける同様な通商禁止と協力して行われる、日本との全面的な通商禁  止。





マッカラム覚書 冒頭
                           


  関連年表


 1937 昭和12 10/5 ル−ズベルト 侵略国の隔離演説 
 1939 昭和14    ドイツのポ−ランド侵攻 第2次大戦始まる
        7月  日米通商航海条約破棄
  1940 昭和15  
        6/21 フランス降伏
        7/10  レンドリ−ス法
        7/25  在アメリカ 日本資産凍結
        9/22  北部仏印進駐
        9/27 日独伊三国同盟
        10/31 バトルオブブリテン 英国勝利 
        10月 マッカラム覚書  米国屑鉄禁輸
 1941 昭和16 
        6月 蘭印との交渉決裂
        6/22   独ソ開戦
        6/30   南部仏印進駐
        7月  日本船パナマ通行禁止   
        8/1 米国石油全面輸出禁止
       10/2  ハル4原則
       11/27 ハルノ−ト
       12/8 日米開戦


          2016-4-3




    ル−ズベルトとコミンテルンのの戦略のすごさ 
       第2次大戦をめぐって   

                 中西輝政氏による
 

  日本は太平洋戦争でマッカ−サ−やニミッツらに敗れたのではない。彼らはそれを知っていたら絶対に負けるはずのない完璧な事前情報により戦ったにすぎない。またアメリカの物量が戦争の主役であったわけでもない。日本を撃破した主役は次の4人である。

 ロ−レンス・サフォ−ド
 ジョセフ・ロシュフォ−ト
 ウイリアム・フリ−ドマン
 アグネス・ドリスコル

 以上の彼らが大戦中・戦前日本の外交・海軍暗号のほぼ完璧な解読を可能にした人々であった。彼らの功績の上に、開戦に至る外交交渉から真珠湾、ミッドウエイ、ソロモン、マリアナ、レイテなど殆どの戦闘で、日本の事前の情報を探知しつくして、史上類のない圧倒的勝利をアメリカにもたらした。

 1940年秋にチャ−チルやル−ズベルトが、この戦争は勝てるという見通したその時にわざわざドイツと同盟に入るという選択をした日本は哀れな存在であった。その翌月にマッカラムが起草した対日開戦促進計画採用されたとみられる。苦境に立つ英国を救い欧州の覇権と民主主義を擁護するために何としてもル−ズベルトは欧州に参戦したかった。 当時の日本人がABCD包囲網が一体、何を目的にして日本を締めあげているのか理解できず、情報力の圧倒的格差もしることなく、アメリカのシナリオどうりに坂道を転げ落ちていった。 とりわけ千島を出港してハワイをめざした連合艦隊はハワイ近くに行くまで航行を把握されていた。山本五十六神話は細部までアメリカの監視の元に行われた児戯であったとは?

 ソ連の情報戦略はコミンテルンを使い世界の進歩派リベラル知識人を巧妙きわまる手段で操り、自国の国益に奉仕させた。日中戦争に至る経過やシナ事変の泥沼にはまりこんだこと、日本と米英国を対立を助長していった中身については現在の中国が崩壊すれば明らかになってくるだろう。 (ソ連は、ドイツと日本を敵にして戦うという2正面作戦は見事に回避された。)

 日本人は90年代のバブル破たんの背景をもっとよくしるべきである。単なる軍事力や経済力だけではどうにもならないことがある教訓を骨身に刻んでおくことだ。


  以上は雑誌・正論、平成12年10月号、   ステイネット著 真珠湾の真実の解説によりますが、爺爺は皆様にぜひ原文をお読みになることをおすすめいたします。


          2016-4-13



      失敗の本質 





 小生もそうですが(何・誰と?)、失敗は数を重ねて来たにも拘わらず、それを見つめもせず、糧にもしてきていません。ゆえに同じ過ちを繰り返してきたということです。 以下その爺が何をのたまうのかということですが。

 バブル崩壊後の1991年にこの本は出版されました。戸部良一さんら7人による共同研究です。
1. ノモンハン事件 1939年5月-9月
2. ミッドウェー作戦  1942年6月
3. ガタルカナル作戦  1942年8月-1943年2月
4. インパ−ル作戦  1944年3月-7月  
5. レイテ作戦  1944年10月 
6. 沖縄戦   1945年3月-6月

 日本軍は上の6つの作戦のすべてにおいて、「作戦目的に関する全軍的一致を確立することに失敗している。主観と独善から希望的観測に依存する戦略目的が戦争の現実と合理的論理によって漸次破壊されてきた。」
 「帝国陸海軍は既存の知識を強化しすぎて、帝国陸軍は、ガタルカナル戦以降の火力重視の必要性を認めながらも、最終的には銃剣突撃主義による白兵戦術から脱却できなかったし、帝国海軍もミッドウエイ海戦の負け以降も空母の増強を図ったが、大艦巨砲主義を具現した大和・武蔵の46センチ砲の威力が必ず発揮されると最後まで信じていた。」
「事実を冷静に直視し、情報と戦略を重視するという米軍の組織学習を促進する行動様式に対して、日本軍は時として事実よりも自らの頭のなかだけで描いた状況を前提に情報を軽視し、戦略合理性を確保できなかった。」
 日本は先の大戦では2つの軍隊がそれぞれ米国軍と対峙して戦った。空母や潜水艦を陸軍が開発し、戦車を海軍がそれぞれ開発生産した。同じ航空機エンジンのライセンス料を個別にダブルで支払ったほどです。資源と能力の少ない中で統一的な運用・戦略作成はできませんでした。 
 初戦に陸軍はマレ−作戦、ジャワ島作戦、フィリッピン攻略と成功させた。いずれも植民地軍で能力の高い軍隊ではなかった。海軍は英国戦艦を陸上雷撃機により沈没させた。どちらも成功体験であるが、その後の失敗から新しいことを学ぶことができなかった。一方、米軍は戦艦建造を航空主力に戦略を転換させた。
 「組織学習には、組織の行為と成果との間にギャップがあった場合には、既存の知識を疑い、新たな知識を獲得する側面があることを忘れてはならない。その場合の基本は、組織として既存の知識を捨てる学習棄却、つまり自己否定的学習ができるかどうかなのである。主体的に進化する能力のある組織が自己革新組織である。軍事組織もこの行動を通じて日々進化を遂げていかねばならない。」
 人事面では最後まで平時の人事を行い、海軍では水雷屋を空母艦隊の司令官に任用したり、石原莞爾は戦時に退役させています。士官学校・陸海大卒業時の席次でその後の昇進を決めていました。年功序列人事です。米軍のような能力や戦功による抜擢人事は行われなかった。それゆえに「現場の自由裁量と微調整主義を許容する長所を出来上がった官僚的階層構造を利用して圧殺してしまった。」「日本軍の最大の失敗の本質は、特定の戦略原型に徹底的に適応しすぎて学習棄却ができず自己革新能力を失った。」
 潜水艦「おやしお」の事故の記者会見で海上自衛隊のトップが先輩であったので驚きました。創設期で防大の確立ができていなかったせいでしょう。将官になるのは圧倒的に防大卒に今はなっていると思います。先の帝国海軍で、理数ができる人材が昇進していった事態と同じように今もなっているのかもしれません。 また、防大や自衛隊のなかでのいじめによる問題も報道されています。果たして自己変革できているといえますか?
 民間でも、最近の東芝、シャ−プ、サンヨ−とこれまでの勢いのあったものが、変革を迫られています。同じ問題に直面して結果がでているのでしょうか?

   2017-9-14






      日本は「勝利の方程式を持っていた」 茂木弘道


          ストラテジイ-ゲ−ムと共に






  
 昨日が開戦日だったとは、失念していました。 最近になって、先の大戦を見直す文が個人的には目についています。 この茂木さんの本もそのひとつです。


 小生はミリタリ−もののPCゲ−ムを好みます。それらをプレイするには1か月も要しますが。 洋物では「ハ−トオブアイアン」和物で『太平洋戦記3』をよくやりこみました。 ジェネラルサポ−ト社から2012年から販売されている「太平洋戦記3」はいまだに販売ランキングに登場する(マニアックな?)人気作となっています。 しっかりと当時のデ−タを集めて作りこんだ作品です。





 太平洋戦記3
      



 ハ−トオブアイアンW



 この本で著者は「日本は勝てる戦略を持っていた」と言います。 開戦直前11月15日に「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」が大本営政府連絡会議に正式採択されたが、それであると。

 その戦略は、アジアに資源の有る「米英蘭の根拠地を占領して自存自衛」を確立し、「蒋介石政権の屈服」をし、独伊連携して先ず「英の屈服」を図り、「米の継戦意志を喪失」させることである。

 そのためには、インド洋に潜水艦による通商破壊戦を行う。 
  これにより、
 「英国からエジプトへの補給を断絶」、
  70%を占めたという「米国によるソ連支援のレンドリ−ス補給を断つ」、
 「インドから英国への補給線を断つ」。これらにより「ロンメルのエジプト占領」、
 「ドイツの東部戦線の優位又はモスクワ占領」、
 「インドの独立」、
 「援蒋ルートの遮断」による蒋介石との和解などが得られる。

  これらが「腹案」の要旨である。






   連合国 インド洋 輸送ル−ト


真珠湾攻撃の成功が、海軍の「ミッドウエイ作戦」、「ラバウル占領」、「ガタルカナル」への進出と戦線の拡大を招いた。また、米国人の「敵愾心」を煽ることにもなってしまう。
 海軍は日露戦争以来の艦隊撲滅しか関心がなくて、商船を護衛して、東南アジアからの資源の補給線を維持することはできなかった。初戦の成功体験が「腹案」の無視・軽視を招き、戦略を失敗して悲惨な敗戦を招くことになる。

 ゲームに話は戻る。日本の開戦前の造船ドックには多数の潜水艦を建造していた。「太平洋戦記3」ではそれを廃棄した鉄で、空母と戦時急造護衛艦や輸送船を作ることを、まずやることになる。
 また、このゲ−ムでは、飽きもせずに営々と商船隊を護衛して本土に資源を運ぶ作業を強いられることになる。同様に味方占領地への補給も絶やすことはできない。 ゲ−ムの勝利条件はハワイを含む根拠地を大量に占領することなので、潜水艦を通商破壊戦闘に利用することはない。当時の日本海軍もそれは考えていない。

 戦況が厳しくなってから絶対国防圏構想で戦線の縮小を考えたが、その時になってサイパン防衛のための資材は、ラバウルらへの投入で枯渇していた。サイパンの要塞化の実現は時期も遅く資材も無いことで出来なかった。それゆえに、簡単にサイパン占領を許し、本土への大空襲を招くことになる。

 このゲ−ムデザイナ−から話を聞く機会がありました。 彼によれば、このゲ−ムでは、とても日本には勝つチャンスは無く、大甘にしてあるのだそうです。 「太平洋戦記3」では「腹案」により勝利できるようにはデザインされていない。しかしこの「腹案」を用いた戦略でこのゲ−ムを一度してみたいものです。

 この本の著者は「勝利の方程式」と述べるが、負けたにしても被害が少なくて済んだのかもしれません。

   2018-12-12




      米国 JBB355 作戦計画






 JBB355案のサイン入り文書


 小学生のころにおやじとフロに入ったとき「なぜ 戦争をしたのか?」聞いたことを60年以上経た今でも覚えています。 今思えば、戦後生まれの小学生でも、すでに当時の時代背景を刷り込まれていて、詰問調であったのではないかと思われます。 親父の答えは「ABCDE包囲網になりやむ負えず」だったように覚えています。 農家に育ち高等小学校を出て輜重兵伍長になった親父には難しい表現が使える身ではなく、当時のマスコミが世間に流布していた言葉を息子に発したのだと思われます。

 戦争で宣戦布告を行って始まる戦争は米国では200回の開戦で4回だという。ル−ズベルトによる「だまし討ち」の世論誘導が上手かっただけです。 マッカラム文書によるとル−ズベルトは真珠湾奇襲を情報により知っていました。彼は先に手出しさせる余裕の戦争を行いました。

 下記の年表をご覧になれば、昭和14年9月に砲艦外交により結ぶ日米友好通商条約を一方的に米国から破棄しています。昭和15年の日本の全輸入の36%が米国からであり、油、くず鉄、工作機械が含まれていました。売らないということは経済封鎖をしたことと同じ。     1928年ケロッグ国務長官は不戦条約の批准のときに「経済封鎖は戦争行為である」と述べている。
 昭和16年7/23にル−ズベルトは10月に日本を爆撃する「JBB355」プランを承認しています。 米国からの不意打ち開戦になっていたでしょう。 バトルオブブリテンでの航空戦で苦境に陥っていた英国を助けるために、予定していた爆撃機を英国に回したことにより、この日本奇襲プランは中止されました。
 この文書は1970年に公開され、91年にABC放送が、2018年に8/12にテレビ朝日が放送しました。極めて最近まで皆が知ることはありませんでした。日本の対外宣伝がヘタなだけで、だまし討ちしたといわれる筋合いのものではありません。

 戦後になりマッカ−サ−が外交委員会で「日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことである」と証言しています。 親父のフロでの答えが間違っていたわけではないでしょう。

 まだまだ先の大戦に関して未解明のことが多いのかもしれません。


      開戦前年表

  
      1928・12/7 ケロッグ演説。「経済封鎖は戦争行為である」
昭和4年・ 1929   NY株式大暴落 世界恐慌
         7/29 ケロッグ・ブリアン条約(パリ不戦条約)発効
      1930   スム−ト・ホ−リ−法米国制定、平均輸入関税率40%
      1932   満州国建国、 米国「スチムソン・ドクトリン」
      1933   国際連盟脱退
      1935   英連邦特恵関税制度
      1936   2・26事件
      1937・7/7 盧溝橋事件、 日中戦争
昭和14年・1939・5月 ノモンハン事変
7/26 米国「日米通商条約破棄」日本への軍需物質輸出停止
9/1 第2次世界大戦開戦           
      1940 9月 日独伊三国同盟
         11月 ル−ズベルト再選 
昭和16年・1941・3月 米国レンドリ−ス法制定
         4月 日ソ中立条約
         6月 独ソ戦開始
7/23 ルーズベルト、日本爆撃プラン(JB355)承認
7/28 日本資産凍結
         8/1 米国対日全面禁輸
          10/1 JB355中止、バットルオブブリテン支援のため爆撃機を移す、
          11/15 対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案 
          12/8 真珠湾攻撃
       1942・6/5 ミッドウエイ海戦、ガタルカナル敗戦
          6/21 ロンメル、トブルク攻略
 昭和20年・1945 8/15 敗戦


      2018-12-13



     レンドリ−ス対ソ支援と日本



 武器貸与法・レンドリ−スは米国が1941から1945にかけて英、ソ連、中国、仏など連合国に対して軍需物質を提供したことを云う。総額500億ドルで、英国314億ドル、ソ連113億ドル、仏32億ドル、中国16億ドルである。

 ソ連に対するレンドリ−ス

航空機14795機、戦車7056両、戦闘用車両6300両, 砲車2300台、対空砲8200
台、トラック37583台、ジ−プ51503台、食料4478000トンなど。下記詳細。

航空機 14,795
戦車 7,056
ジープ 51,503
トラック 375,883
オートバイ 35,170
トラクター 8,071
銃 8,218
機関銃 131,633
爆発物 345,735 トン
建物設備 10,910,000 ドル
鉄道貨車 11,155
機関車 1,981
輸送船 90
対潜艦 105
魚雷艇 197
舶用エンジン 7,784
食糧 4,478,000 トン
機械と装備品 1,078,965,000 ドル
非鉄金属 802,000 トン
石油製品 2,670,000 トン
化学物質 842,000 トン
綿 106,893,000 トン
皮革 49,860 トン
タイヤ 3,786,000
軍靴 15,417,001 足

日本はゼロ戦を15000機生産した。昭和16年から20年8月までの航空機総生産は6万8千機です。 日本のゼロ戦の生産数とほぼ同数の航空機を米国からソ連に引き渡されました。戦車に至っては日本で、この期間に4千台ですので話になりません。 米国は501億ドルの総額で現在の70兆円と言われています。米国は横綱相撲をし、ソ連はドイツの攻撃を持ちこたえて勝利したのが分かります。もし、日本は連合国になって独伊に参戦して、これらの援助を受けたとしたら楽勝だったでしょう。当然その時は中国と和平して遊兵だった中国駐留兵力50万余りを日本へ帰還させることになります。

米・英からのソ連への補給ルートは

1)ヨーロッパ・ノルウェーの北、北極近くの航路。
  ムルマンスクへ
2)アフリカ南方回り、イラン経由、南方ルート。
  不明ペルシャ港へ
3)アメリカから太平洋を渡ってウラジオストックに上陸するルート。
  ウラジオストックへ




 レンドリ−ス補給路        にっしさんのブログより



  3)の太平洋ル−トが補給の半分以上を占めたということから、歴史どうりに1941・12/8に、米国と開戦したとしても、1941・6/22に独ソ戦開始と共に日ソ中立条約を破棄してソ連向け船舶の臨検を実行してレンドリ−スを妨害する手もあったでしょう。
また、開戦後1942・4/5-9にセイロン沖海戦で勝利したが、徹底したものではなかった。同時に潜水艦を使っての通商破壊戦でインド洋の制海権を握っていれば、レンドリ−スのペルシャ航路を断絶させ、ロンメルのカイロ占領、スタ−リングラ−ド戦やモスクワ戦のドイツ勝利に貢献したであろう。




  独ソ日戦況図



         2019-1-4










     海軍大戦略  海上決戦主義と艦隊保全主義

                          小室直樹さんによる





 昭和15年特別観艦式 最後となった


 海軍の戦略としては相反する「艦隊保全主義」と「決戦主義」があります。 日露戦争ではロシアの太平洋艦隊をせん滅してからバルテイック艦隊と戦わねばならなかった。
 幸いにも、203高地からの陸軍による砲撃により旅順に停泊していたロシア太平洋艦隊を沈めることができた。それで対馬海峡においてバルテイック艦隊と決戦して撃滅することになる。 これらのことにより、奇跡的に東郷提督はこちらの艦隊を保全し、旅順艦隊を全滅させて決戦に勝利するという難題・矛盾を解決することができた。

 その後はそのことを少しの研究をせずに太平洋戦争に至った。日本海軍は決戦のその日まで軍艦を沈めてはいけないことに縛られます。 先の戦争では以下の結果を招いた。

1. 真珠湾での第2次攻撃をしなかったこと
2. ガタルカナル夜襲に成功しても輸送船を攻撃しなかったこと
3. ミッドウエイで戦艦を前面にして戦わなかったこと
4. マリアナ海戦のアウトレンジ戦法
5. 栗田艦隊のなぞの反転 最後の決戦のはずだが?

   具体的な上記作戦については皆様で調べてください。ここでは書きません。
 
 注)艦隊保全主義・現存艦隊主義とは
決戦を避けて自軍の艦隊を温存することにより、艦隊の潜在的な能力で敵国の海上活動を妨害する海軍戦略である。フリート・イン・ビーイング(fleet in being)

 勝利の体験から抜け出せないのはどの国でもあることでしょう。日本が航空戦力で戦艦を沈めることができる実績を初めて作った国でもあるにも関わらず、ミッドウエイの敗戦まで、大艦巨砲主義・戦艦保全にこだわり航空主兵に変換できませんでした。 真珠湾の敗北により米国は航空主兵に転換した。

 日露戦争での海軍の戦略・戦術を考えた秋山真之はよく知られています。彼の考えが第2次大戦まで営々と受け継がれてきました。 資源に乏しい日本では短期決戦しか勝ち目はない。従い日本海海戦のように日本近海で迎え撃つ海軍戦略を取りました。そこまでに潜水艦や巡洋艦による夜襲水雷作戦により敵主力艦を減少させて決戦に臨む戦略です。海軍の戦力は二乗に比例するといわれ、軍縮条約で決まった10対7の比率では100対49 になりまともには戦えません。そこで日本の軍艦は経済的にも数を揃える事ができないので、個艦優秀をとり航続距離を削り武装を強化し居住性を犠牲にして近海で戦う設計で軍艦を作ってきました。

 山本五十六がこれまでの戦略に反する初戦の真珠湾攻撃を認めさせて、大成功をしました。今ではル−ズベルトは承知していて攻撃をさせたと云われています。 その成功が今まで着々と重ねてきた戦略を、彼が主導して変更をさせる。 その結果は、豪米遮断を目的としてラバウル・ニュ−ギニア・ガタルカナルへと戦線を拡大し消耗戦に陥ることになり敗北をしました。

 アメリカの軍隊の弱点は民主主義によることであった。アメリカンボ−イに何ができると侮っていました。 しかし、真珠湾攻撃により、開戦に反対の多数の世論を、一致した「世論合意の戦争」にさせててしまった。それは逆に長所である民主主義の軍隊の強さを呼ぶことになる。 彼や海軍軍令部は真珠湾攻撃で戦略を変更して、戦闘に勝利したが戦争に負けたといえましょう。

 真珠湾攻撃を行わずに、サイパンを要塞化して固めていたとしても、ニュ−ギニアからフィリピンで負け、油や資源の補給路を断たれて敗北でしょう。 例え、近海での決戦により大海戦に勝利をおさめてたとしても、敗戦を1年程度延ばすだけだったかもしれません。 海軍戦略の上に「戦争のグランドデザイン」を描くことがもっと必要だったのです。 負けたにしても、まともな負け方があったでしょう。


  海上自衛隊東京音楽隊 ルネッサンス部局集  7分
 https://www.youtube.com/watch?v=j3MgrI-G8xc


    2019-1-15










      日本の軍隊の致命的欠陥

         日下公人さん、小室直樹さんによる






 練習機による特攻訓練




 なぜ日本は兵隊に降伏をゆるさなかったのか、また、特攻作戦をしたのか、それは軍の指導者が兵隊を信用していなかったからだ。 艦内でも兵舎でもいじめが横行していても、放置されたのは強制的な命令で兵を動かしたかったという理由からでしょう。

 特攻で、「もし爆弾を落として帰って来ていいのなら、皆たいした攻撃をしないで帰ってくるのではないか」という国民不信の思想だった。 なぜ、そうなるかというと、その根本は民主義国家じゃないわけで、「戦争目的ついて国民の合意を得ていない」と、戦争指導者自身がそう思っているからです。 国家が国民を信用していないのだから、日本は根本的に弱い。上の人が勝手に戦争を始めたから、下がついてくるか心配だ。 アメリカとはそこが違う。 アメリカでは大学から志願兵が殺到した。 自発性を問うことなく、学徒出陣をさせたように、嫌がるのを無理やり連れていった。

 軍人が兵隊を信用していない、一方では、軍人は国民から尊敬されていない。軍人は尊敬されようと思って、部下に対しても、誰にでもヒステリックになった。

 軍は欧米では戦争を機能的要請とする機能集団です。ところが、日本では機能集団であると同時に共同体になってしまう。 その特徴は、人間関係が最優先される。 海軍では仲良しクラブといわれ、敗戦責任を提督は問うようなことは無かった。 陸軍はシナ撤兵を拒否して日米戦争に突入した。
 負けるに決まっている日米戦争に突入すべきではありません。共同体になっていると、それの要請が絶対的に優先されてしまう。 戦後になっても続くお役人の無責任体制は、省益が優先され国民のためを思っていない、共同体お役所村が続いているからです。


 
  特攻まとめ


    2019-1-17



     誰が第2次世界大戦を起こしたのか  渡辺惣樹





   草思社刊



 アメリカ大統領任期1921-1928であったハ−バ−ト・フ−バ−が書いた「裏切られた自由」の翻訳者渡辺惣樹さんが書いたそれの入門書を読む。 原書を読めると良いのだが、フ−バ−のこの翻訳されたものは高価な本であり小生には買えそうもない。田舎住まいゆえか地方の図書館では捜しても見つからず。

 ルーズベルトがニュ−デイ−ル政策で大恐慌を克服し、第2次世界大戦を勝利に導き、ファシズムの脅威より世界を救ったと戦後教育で学んできた。(アポロジスト・釈明史観というらしい) 今では、ニュ−デイ−ル政策は大恐慌を救えなかった,結局、戦争の開始でしかそれを解決できなかったと云われている。



 下図 GNPと失業率・失業者


 菊池英博お「金融大恐慌と金融システム」による数字


 戦後になって見てみると米国はファシズムを確かに打倒したけれども、一方でソ連と中国の共産主義を大きく成長させただけに終わってしまった。 第2次世界大戦はポ−ランド救済ということで始まる。ポ−ランドは独ソで山分けされたのである。ポーランドに対して独ソは共同責任のはずだが、ソ連を責めた話はどうなったのであろうか。大戦が終わってみれば、ソ連のひとり勝ちでポ−ランドはソ連圏内の国である。

 ル−ズベルトが日本に対日強硬外交・経済封鎖をすることで、真珠湾攻撃へ追い込む。 80%余りの反対で欧州への参戦を拒んできた世論を日本の卑怯に見える米国への攻撃で米国民を開戦へと変質させた。ル−ズベルトの思惑と行動により彼の秘めた参戦の望みがかなう。

 独ソがお互いに削りあって戦っていたのを、莫大なレンドリ−スでソ連を助けなければ独ソとも一層の自滅の状況での膠着から仲介の労を取ることを米国はできたであろう。(高みの見物) 日本にとってはルーズベルト策謀が無ければ、負けるとわかっている戦いに暴発しなくて済む可能性があった。 300万人の戦争死者を日本は出さず。アメリカンボ−イも多く死なせなかったであろう。

 フ−バ−には真珠湾攻撃の報が伝わったときには、その時にはまだ分かっていなかったのであるけれど、ル−ズベルト政権が日本に対して何かやらかしたな、と感じたのである。
フ-バ−は冷静で友人に、日本に何をしたのか資料を集めたいと手紙を書いた。ハルノ−トの存在も詳らかではなかった時期である。彼が「裏切られた自由」を後に書くことになった。

 フ−バ−は大恐慌時にそれを防ぐ政策に失敗した政治家として知られている。(余談だが、それに唯一成功したのは日本の高橋是清であった。ル−ズベルトは虚構である。)フーバ−は身の上からもアメリカンドリ−ムの象徴のような人物である。孤児から一代で裕福になり大統領までになった。 第1次大戦の折には欧州に取り残された米国人の帰国に貢献し、イギリスの海上封鎖により飢えに苦しんだベルギ−人も援助している。第2次大戦後にはモ−ゲンソ−プランでドイツ人が900万人飢えて死んだといわれるが、マ−シャルプランに切り替えて日本もドイツも復興援助された。 小生もまずい脱脂粉乳を給食で飲んだ記憶がある。
 





  ハ−バ−ド・フ−バ−・Herbert Clark Hoover 1874-1964

  フ−バ−略歴

1874  クエ−カ−教徒の一家に生まれる。幼くして両親を亡くす。オクラホマの伯父に引き取られてインデイアンノオサゲ族の学校に学ぶ。
1885 オレゴンの伯父が引き取りジョ−ジ・フォックス大学に清掃をすることで授業料免除で学ぶ。
1891 スタンフォ−ド大学の鉱山学部に学ぶ。
1893 恐慌
1895 卒業 失業率11-13% 坑内の鉱石運び出し作業日給2ドルを得る
1897  豪州の鉱山技師月給600ドルで働く
1899 ルイ−ズと結婚 中国で主任技師年2万ドルで働く
1900 義和団事件 バリケ−ドの建設に貢献
1902 BMC社の経営陣に参画 ロンドンに移る
1908 独立、鉱山コンサルタント業
1914 この年までにビルマで生涯の財を成す。第1次世界大戦勃発
   ベルギー救援委員会を設立し休戦までの4年間デ500マントンの食糧を送る
1920 ハ−デイング大統領の下で商務長官
1928 28代大統領になる。 
1929 ニュ−ヨ−ク株式市場大暴落 世界恐慌 
1932 大統領選に敗れてル−ズベルトが大統領になる



   2020-2-12




      真珠湾攻撃総隊長の回想  その1 

      淵田美津雄自叙伝 による




 明治35−昭和51   講談社文庫  中田整一 編・解説



  淵田美津雄の回想記を読みました。彼は真珠湾攻撃では、攻撃隊の総隊長として飛行隊の指揮をして、「トラトラトラ」を発信して奇襲の成功をおさめる。ミッドウエイ海戦にも隊長で出撃寸前に盲腸を患い艦内で入院した。その空母赤城が沈没して重傷を負う。その後連合艦隊参謀としてエンガノ沖海戦での囮作戦を着想し、米空母群の引きだしに成功すれど、戦艦大和を含む栗田艦隊は謎の反転をしてしまう。 広島原爆には前日まで広島に滞在していて難を逃れ、広島と長崎の被害視察を行う。不思議と後遺症を負うことは無かった。

 戦後に米国での捕虜になった人からの尋問を行い、その時に収容所で起こった、両親がスパイの疑いを受け首を斬られた娘が日本人捕虜に対する献身的な援助をしたことを聞く。また、東京空襲を行ったドウリットル航空隊員で捕虜になり虐待を受けた人が、戦後に日本の駅頭で布教しているのに興味を持ち、彼は聖書を読む。

 入信の動機は、小生のような古楽の宗教音楽が大好きでも無新論者には説明できません。 聖書に接するだけではなく、それまでの奇跡のような体験で、ひと飛びするような霊感がないと宗教に入ることはできないような気がします。 それから彼は洗礼を受け、アメリカで伝道をすることになります。 トル−マン大統領、アイゼンハワ−大統領」、マッカ−サ−元帥、ハルゼ−提督、ニミッツ元帥、スプル−アンス大将などそうそうたる面々に会うことができました。彼らといろいろな話をします。そのことは後に書くつもりです。

 彼は日本人から敵の宗教でなく神道や仏教ならよいのに、敵の宗教の懐に入って糧を得たと云われ。米国ではパ−ルハ−バ−のだまし討ちの余韻が残っている状況での伝道あった。どちらも良い情勢ではなかった。 彼は自分がアメリカに渡るのは、決して罪のためではない。戦争は互いに相手への無知から起き、アメリカにも非の有ることだ。相手に日本人の何たるかを理解してもらい、自分もアメリカ人を知ろう。この覚悟で多くの聴衆に向かって愚かしさと憎しみの連鎖を断つことを訴えた。


  略歴
1902・明治35  奈良県に誕生

1924・大正13  海軍兵学校卒・52期

1938・昭和13  海軍大学卒・36期、 中支作戦従事

1940・昭和16  中佐任官、真珠湾攻撃総隊長

1941・昭和17  ミッドウエイ従軍、盲腸で参加できず重傷を負う

1944・昭和19  連合艦隊航空首席参謀、捷1号作戦着想、、大佐任官

1945・昭和20  海軍総隊航空参謀、広島長崎原爆視察、

1949・昭和24  デイシェイザ-の手記と出会う

1951・昭和26  洗礼を受ける

1952・昭和27  第1回米国伝道, 以後昭和40まで7回渡米伝道
1 969・昭和44  死亡



   2019-8-30


   真珠和攻撃総隊長の回想
 1
 2  憲法制定と再軍備
 3  捷1号作戦
 4  米国首脳との会見
 5  ニイハウ島事件
 6  山本五十六凡将論



     




     英国から見た太平洋戦争

          外国人記者ストークスによる   

   



                     


 欧米主要紙の英国人在日支局長を長年務めたストークスさんの本を読み
ました。米国からの先の戦争についての情報が多いなかで、英国から見た
戦争観は新鮮なものを感じました。
 日本のマレー作戦は真珠湾の数時間前に布告予定も無く突入した。3個師
団の少数で、植民地軍が主力だが倍の兵力をもつ英国軍を短期間で1100
キロ進軍して撃滅してシンガポールを占領。後にビルマも占領して東南ア
ジアの英国植民地を日本が占領した。
 これを契機にして植民地の民衆は目覚めて戦後の世界の植民地が独立す
ることになる。英国はインドの独立などで主要植民地を失い、長期没落の道を
たどることになった、サッツチャーにより立て直して英国は現在に至ります。
 会田雄次著のアーロン収容所では英国女性兵士は平気で目の前でパンツを
脱ぎ、捕虜に洗濯を命ずる描写があります。それぐらい日本を含めてアジア人
等には差別意識を持っていました。日本人により英国の繁栄とプライドを傷つけ
られたので、戦後は恨み骨髄の意識を持ちました。
 著者は三島由紀夫にも詳しいけれどこちらが浅学なので興味のある方は
そちらをお読みください。


    2014-7-18